本日の御書です。

「爾(そ)の時に国主は謗法の僧等が方人(かたうど)として日蓮を怨み或は頚(くび)を刎ね或は流罪に行ふべし、度度かかる事、出来せば無量劫の重罪、一生の内に消なんと謀(くわだ)てたる大術、少も違う事なく、かかる身となれば所願も満足なるべし」(P1126呵責謗法滅罪抄)
(その時に、国主は、謗法の僧等の味方をして日蓮を怨み、あるいは首をはねようとし、あるいは流罪にしようとするであろう。たびたびこのような難が起きるならば、無量劫の間に積み重ねた重罪も、一生の内に消えるであろうと思っていた大きな計画が、少しも違うことなく現実となり、このような流罪の身となったので、きっと所願も満足するであろう。)


苦しい時こそチャンスである。大変な時、苦しい時こそ、目の前の課題だけでなく、いろんな事を祈っちゃいましょう。


先生のご指導
「大聖人は『たびたびこのような難が起きるならば、無量劫の間に積み重ねた重罪も、一生の内に消えるであろう』と明言されている。難あればこそ、過去遠々劫にわたって積み重ねてきた罪業も、すべて消える。私どもにとっても、なんとありがたきお言葉であろうか。学会は、大聖人の真実の門下らしく、“たびたびの難”を受けてきた。そのたびに、ますます強く、ますます大福徳を積んできた。『真金』へと打ち鍛えられてきた。そこに、今日の『正法広宣流布』の大展開もあったと信じる。これからもまた同じである。一切は、さらなる発展と成長への原動力となる。ともあれ、大聖人の門下として、『広宣流布』のために難を受け、苦しんだ分だけ、自身は輝く。御書に照らし、そうならないはずがない。そして、ひとたび築ききり、固めきった福運は三世を飾る。『所願満足』のすばらしき境涯を楽しみながら、一切衆生のための『慈愛』の人生を、どこまでも歩んでいける。誉れある地涌の勇者として、永遠に、そして自在に遊戯していける。まさに、これ以上の生命の軌道はない。この大聖人の仰せを、どうか深く確信していただきたい。」(1991年4月2日)