第十七条「一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。」
(たとえ、時の貫首(法主)であっても、仏法の正義に背いて、勝手な自説を立てた場合には、これを用いてはならない)


先生のご指導
「日興上人は、仏法を破壊する、破法の法主には、絶対に従ってはならないと誡められている。この条目が二十六箇条の中に入れられていること自体、日興上人は「法主は無謬(むびゅう=誤りがない)」などと思っておられなかったという明らかな証拠である。それどころか日興上人は、従ってはならない法主が出現することを危惧されていたと拝される。ゆえに私どもが「己義」の日顕に従わず、厳しく、その謗法を呵責していることこそ、日興上人の御遺誡を厳守している実践なのである。(中略)牧口初代会長も、宗門の無理解や妨害に常に苦しめられた。最後も宗門の裏切りによって、獄死されたのである。戸田先生は、また、「この教団(日蓮正宗)の七百年の古い伝統は、一面には尊く、かつ清く、ありがたく、かつ一面は猫もねずみも出るであろう。かかる猫やねずみの類は、必ず一掃されるから、心配することはない」と。悲しいことに、宗門は「猫やねずみばかり」になってしまった。大聖人の仏法を食い物にし、供養を貪り、うごめいている、ノラ猫や飢えたねずみのごとき醜侶は、広布へ進む信心の世界から、一掃せねばならない。また現実に、清らかな「広布の世界」には、いられなくなって、自ら去っていったのである。」(1992年10月24日)


先日、対話した法華講員は「御法主上人は現代の大聖人様です。」と主張していました。噂には聞いてましたが、目の前で直接聞くと衝撃的ですね。
言うまでもなく、今回紹介した御遺誡に背く大邪義ですが、本人はまったく自覚がありませんでした。
また法華講員は「用いないだけだ。」と主張していましたが、壊れて使わなく(用いなく)なったテレビや冷蔵庫は、普通は捨てます。「己義」を構えるようになった法主は使い物にならないので、捨て去ってしかるべきでしょう。しかし、学会は最後まで僧俗和合を模索し、使い物にならなくなった法主でも捨てようとはしませんでした。
ところが宗門は、平成3年に、まったく話し合いに応じず一方的に創価学会を破門に処し、自ら広宣流布の王道から外れていったのです。深い深い大聖人の御仏意を感じずにはいられません。