本日の御書です。

「答えて云く釈尊は法華経の御為に今度、九横の大難に値(あ)ひ給ふ、過去の不軽菩薩は法華経の故に杖木瓦石を蒙り、竺(じく)の道生(どうしょう)は蘇山に流され法道三蔵は面(かお)に火印をあてられ師子尊者は頭をはねられ天台大師は南三・北七にあだまれ伝教大師は六宗ににくまれ給へり、此等の仏菩薩・大聖等は法華経の行者として而も大難にあひ給へり、此れ等の人人を如説修行の人と云わずんばいづくにか如説修行の人を尋ねん」(P501如説修行抄)


昨日の質問に対する回答です。
「釈尊は法華経のために九横の大難に遭った。不軽菩薩は法華経のために杖や木で叩かれ、瓦や石を投げつけられた。竺の道生は蘇山に流罪され、法道三蔵は顔に火焼(かなやき)を押され、師子尊者は頭をはねられ、天台大師は南三北七に恨まれ、伝教大師は六宗に憎まれた。これら法華経の故に大難に遭われた人々を如説修行の人と言わなければ、誰を如説修行の人と言うのだろうか?」と。
信心すれば、悩みがまったく無くなり、苦労もしない生活が待っていると思っていたら間違いのようです。
「だったら、なんで信心しているの?」という疑問が出てくるかも知れませんが疑問は、おおいに結構。信心を深めるための通過点です。