私がこのブログを書き始めた最初の理由が、老人鬱からの脱却する為の方法だと初めの頃に書いたと思いますが、そう簡単には行きませんでした。”老人鬱”と言うのは絶え間なく現れ、ブログを書くぐらいで簡単に問題解決するものではありませんでした。幻に終わった「第4の人生」もそうした老人鬱からの脱却願望から生じたものではあったのですが…。

一言でいうと事業主として営業を続けていく事に疲れていたのです。

そんな時、映画の「Perfect Days」を観ました。

主人公の平山は朝早くに東京の江東区亀戸辺にあるアパートから車で渋谷区内に数カ所設置されている様々なデザインの公共トイレに向かいます。それらを清掃するのが彼の仕事です。

そして、昼休みはいつも決まった神社でコンビニで買ったパンで昼食をとりながら境内の木々の木漏れ日を見ながら過ごすのが、彼の一日の中でささやかな楽しみの一つとなっています。

仕事が終わると自宅に戻り、自転車で銭湯に行き、行きつけの浅草の飲み屋で焼酎と一品を食べ、家に帰って本を読んでその日を終えると言う、ほとんど何一つ変わる事のない、あるトイレ清掃員の日常的な日々が淡々と描かれた映画です。

然し、見ている内、彼が何かに満たされていて、とても幸せな毎日を送っている様に見えたのが強く印象に残りました。

気がつくと私は、この映画を観てからと言うもの、無意識のうちに決まった仕事を決まった時間だけやれば、後は自分の時間で、それを自分の好きな事だけに使う事ができる。

その方が自分の人生の豊かさと言う意味では意味ある人生ではないのか?と思う様になったのです。

今は、決められた時間内での仕事というのではなく、時には夜中の2時、3時、場合によっては徹夜しなくてはならなくなることもある様な時もあります。

と言っても、毎日ずっと休みなく仕事しているわけではありません。

時には丸一日休みの日が何日か続く時もあります。

毎日決まった時間に勤務をしなければならない人からすれば、逆にそんな夢の様な仕事があるのか?と思われるかもしれません。いや、それどころか「何を言ってるんだ?そんな恵まれた環境なのに、それが鬱の原因になるのか?」と逆に反発を買ってしまうかもしれません。

ただ、時間の制約がないという事はイコール、決まった定額の収入は無いという事なのです。収入については全く普通の商売と同じで、良い時は良いのですが、悪い時はベースの収入というものが一部分しかありませんから、それだけではとても暮らして行く事など出来ません。にも関わらず、売上を作るために知恵を絞って、時間をかけて、そしてお客様に買っていただくと言う事は🟰”売り手の責任”が発生する事になるわけですから、ただ売るだけではなく、勉強もしなくてはなりません。そして販売する商品の説明だけではなく、そこから派生する事柄に対しても説明しなくてはならず、準備と手間がかかります。またその説明も初めから出来上がってるものではなく、時には無から作り上げていかなくてはならないこともあります。その上、お客様に対する事故処理と言うサービスがあったりで、仕事の種類で見ると、多岐に渡る仕事を際限なく続けなくてはならないと言う感じなのです。

私はそうした事にほとほと疲れてしまっていたのです。

そんな時に見たのが「パーフェクト デイズ」だったのです。”隣の芝生”とはよく言ったものですね。

然し、改めて映画の力、影響力と言うのは凄いなと気付かされました。

ただ、そこには主演を演じられた役所広司さんという人の俳優としての魅力、人間としての存在感が、私を映画の中のリアルな世界に引き込んだ事は間違いありません。

もう一つ、この映画を観て改めて驚いたことがありました。ヴィム・ヴェンダース監督と言う人は凄い…という事です。

と言うのは、ヴィム・ヴェンダースが今回の作品で主人公の名前を”平山”としていますがこれは、小津安二郎の「東京物語」の主人公と同じです。小津を敬愛していたからと言う事なのですが、私も小津映画の大ファンで戦後の作品はほとんど見ています。特に好きな「秋日和」や「秋刀魚の味」は何度も繰り返して見ています。なので、私なりに小津映画の一連の「似た様なテーマ」から小津が求めた世界、伝えたかった世界と言うものを理解していたつもりでした。

然し、この映画を観て、今までの私の小津映画に対する思いは中途半端なものでしか無かったという事が分かりました。つまり、この「パーフェクト デイズ」を観る事で、小津が映画で伝えたい事、描かれている世界の意味する事について、明確に理解することができたのです。

言わば、私はヴィム・ヴェンダースさんから、小津映画の見方を教わったという事なのです。

そこで、そもそも題名が「Perfect Days」と言うものだった事に改めて気が付きました。小津安二郎の戦後の作品に貫かれていたものは、実はこのことだったのではないかと思ったからです。

何がパーフェクトかは、人それぞれによって違うでしょう。関数や変数が変わる事によって全体が変わる様に。

この「Perfect Days」と言う映画の主人公である平山にとっては、彼の変わることのない日常こそ、完璧な一日なのす。心底、満足して、感謝する事ができる日々なのだと思います。

映画では、この平山と言う人物が何故、公共トイレの清掃人になったのか?元々はどう言う経歴の持ち主なのか?どう言う出身の人だったのか?と言う説明は一切ありません。彼の現在の日常である、Perfect Daysしか、描かれていません。然し、唯一映画の後半で、彼の前半生や出身がどう言う所の人だったか?を想像させるシーンがあります。

私はそのエピソードを映画の中に入れる可否については賛否両論あるのではないか?と思ってはいますが、私自身はその是非はともかく、あのシーンがあった事によって、あの平山と言う人に、またこの映画の全体についても“救い”があったのではないか?と思っています。

そして、一番大事な事が、

そもそも日々の何の変哲もないけど、なんて事ない日常が、何故“Perfect Days”

となるのか?

“Ordinary Days”

(普通の日々)とか、”日々の日常”と言った方が正しいのではないか?と思われる人もいるかと思います。

然し、小津安二郎もヴィム・ヴェンダースさんも、そうした「普通の日」に、普通に生きていられると言う事こそ、現在の世界の色々な国の状況を見れば分かるように”普通”どころか、どれほど恵まれた事なのか!と言う思いが込められているのではないか?

だからこそ“Perfect Days” と名付けたのだと思うのです。

さあ、そう考えてくると、私の“鬱”など、チャンチャラおかしくて、お話にならないほどの”甘ちゃん”だと言う事になります。

ウクライナやガザやミャンマー、ウイグル、北朝鮮など、まだまだ他にもいろんな地域がありますね。

そうした所で暮らしている人のことを思えば、私は何と恵まれていることかと思わずにはいられません。