28歳の時に、そもそも僕は俳優の道に入っては行けなかったんだ。演劇の神様から、お前は入ってくるなとブロックされたんだと思い、芸能界から足を洗って普通の会社員となりました。

然しその後、会社も変わり結婚もした時に、この会社にいたんじゃ生活していけない。夫婦共々倒れてしまうと思い、意を決してその当時、中途採用でも38万円と言う、一番給料が高かった東京海上火災保険の代理店研修生に応募しました。1991年11月の事でした。

その時は、藁をも掴む思いで、何とかそれまでの生活から抜け出したいと言う一心でした。

ただ、零細企業の経歴しか無いものが採用されるだろうか?どうせダメだろうと言う不安が先立っていました。

ところが、その必死の思いが通じたのか、採用となりました。欣喜雀躍とは正にこの事です。

然し、周りからは保険会社なんて務まるわけない!やめろ!保険のこと知ってるのか?などなど、相当な反発を受けました。特に当時の勤務先の社長からは辞めさせないとまで言われる始末でした。

ですが、そのままでは地獄行きが目に見えています。

その一方、採用が決まった事は本当に有り難い事ではありましたが、全く分からない世界で、然もノルマも達成して行かなくてはなりません。

行くも地獄、戻るも地獄と言うのであれば、まだ未来に賭けた方が、例え細い暗い道でも、まだ生きる余地が残されているならば、前に進もう!進むしかない!と思い、気を引き締めて奮い立たせました。 

とはいえ、保険の保の字も知らない私が務まるだろうか?と言う不安は拭えませんでした。

然し、だからこそ必死に集中する事が出来たのだと思います。自分の気持ちの中にはいつも、退路を断っている!と言う張り詰めたものがありました。

研修期間の2ヵ月、習うことは知らないことだらけでした。先ずは2ヶ月の研修を終えることができて、そのまま会社に残れるのか?3年の本研修に進むことが出来るのか?

本研修に入ったら入ったで、半年ごとの査定をクリアして行けるのだろうか?どうクリアしていけばいいのか?生き残れるだろうか?と言う更なる関門がありました。

契約が取れない時はチラシを折り、リュックに入れて朝から晩までまきに行きます。大体1日で順調にポスティングができて1500枚。うまく行かない時は1,000枚をポスティングするのです。

すると、蒔いた所からは何の成果も得られなくても、不思議と蒔いたところではなく、全く違う所から新規の話をいただいたりしたものでした。

そんな時は神様は見てくれているのだと思ったりしました。

そうやって3年2ヶ月をかけて無事卒業し、晴れて東京海上火災保険の代理店として独立することができました。

研修生を卒業する前には、日本ではアメリカの圧力などによって生損保が乗り入れとなりました。ただそのおかげで、私も生保の資格を取って生命保険が売れるようになっていました。然し、時まさにバブルが弾けて日本経済全体がコロコロ下り坂を転がり落ちて行くと言う時代でした。更に途中にはリーマンショックもあり、そして経済界全体で、社会全体で、機構の変革や改革にあいながらも、都合32年間。何とかここまでやってこれました。今は、とにかく感謝しかありません。お客様と会社と業界に、そして社会に心から感謝しております。

私には保険代理店としてのモットーが二つありました。

一つは、保険は目に見えない商品と言われていますが、私は保険を”目に見える商品”として売ろう!と言う信念を持っていました。

もう一つは、いつも“売り手の責任”というものを考えていようというものでした。保険は一般的には難しいし、分かりにくいと言われています。

それだけに、分からないものを売る、お客様が分からないまま売る、と言うことだけはしたくなかったのです。

然し今、いよいよ代理店を辞めようと考えています。勿論、俳優,モデルだけで食べていくことは出来ませんが、これまで数々の荒波をかい潜ってきました。

今、なぜ辞めることを選んだのか?については、専門的な話になるのでここでは述べませんが、正に70歳を境に大きな人生の転機を自ら作ろうとしています。ただ、気持ちの中でハッキリしているものが一つあります。それは

シンプルに生きよう!

シンプルに生きたい!

と言うものでした。

これに尽きます!

気が付いたら”そこ”に来ていたと思うのです。

人は定った時に、特定された場所に来る。変わる為に。根本的な意識から変わる為に。と今、感じています。

新しい仕事が決まったら、今私が所属している会社の社員に、私のお客様を引き継いでもらうために、半年は後継の社員を連れて挨拶回りをすることになるでしょう。

さあ、この先どんな人生が待っているのか楽しみです。