老人となった日

そうと気付いたのは1月7日だった。

そうとは知らず、どことなく自分の内に違和感を感じ始めていたのは、去年の夏くらいだった。だが、その時はそれが、いやその事が老人になった始まりとは気付いていなかった。

それが、間違いなく老人と言う領域に足を踏み込んだ始まりと気付いたのが1月7日だった。

キッカケは去年の暮の、と言っても、未だ10日程しか経っていないが、大掃除の時に『今年は、中々腰が上がらない。腰が上がればそこからは早いのだが…』と一人りごちた事を思い出したからだ。

そして、去年の中頃から、長刀の稽古の前も、営業の業務も、ディスコダンスの撮影の本番に向けての練習にしても、頭ではやらなくちゃと分かっているのにギリギリまで動けないでいた。

やろうとしないと言うより、動けない。子供の頃、試験前に大慌てで勉強する、夏休みの宿題を終わり頃になってやりだすと言うのとは少し違う。そして、ギリギリになってやり出すと一気に集中してやり出す。

然し、集中してやった結果、

長刀も良い稽古が出来、営業も良い成果が得られ、何よりディスコダンスの撮影では、現場でカメラマン、スタッフから高い良い評価が得られた。

頭では分かっている。けれど身体が動かない。

これは、体がと言うより、心が動かないのだ。

身体については、日頃から身体を、つまり体力やバランスや体幹を一定水準に保って維持していないと、体力はみるみるうちに落ちていく。

そして、そのスピードが予想を遥かに超えている事に頭は気付かない。体力が落ちるとどうなるか?何をするにも億劫になり、それが心をして前に向かなくなる。そこでは、

動脈硬化と同じ結果になっているのだ。

何事も億劫に思えた時、

それこそが「老人になった日」なんだという事だと思う。

そして、老人になった日と言う事は、最後のその日までのカウントダウンが始まったと言う事と、その事を意識し始めたと言う事だ。

それを意識する前と、した後とでは、老人前の世界と老人の世界との境界線を超えたと言う事になると思う。

そして、それは無意識というより、それこそ阿頼耶識のレベルで心が感じて生じる変化なのだと思う。

面白いなと思うのは、

昔の人は年齢を数えで言っていた。今は満年齢が常識だ。と言う事は満で69歳の我々は、昨年実は70歳の古希だったと言う事だ。古希なんて、まだまだ先の事、自分とは関係ない話しだと思っていたから、頭の端にもかからなかった。

然し、現実は違う。肉体的にも、すでに多くの変化が起きている。一部は如実に感じる時もある。

自分の感覚とは別に、着実に、自然現象としの“老”を

体験しているだ。