キリストカレー -2ページ目

キリストカレー

ブログの説明を入力します。

政治の話は難しい。

教会は虐げるものと虐げられるものが存在するときに、迷うことなく虐げられるものの側についてきました。虐げられる側の人々にどうしようもない人間がいたとしても、虐げられているというその事実をもって、イエスはまずこの小さく弱くされた人たちのものに向かったのだから、問答無用で教会は権力の側にではなく、虐げられたものの側につきました。それが実現できていたかどうか、また、その教会の行動原理が鼻持ちならないエリート意識に染まっていなかったかどうかはさておいて。行動基準は明確でした。虐げられている人の側に立つ、と。

 

でも今は違います。

虐げられていると感じる人たちが圧倒的多数派になりました。当然、虐げられている人たちの中身も多様化してきます。そして虐げられている故に、権力者の力強いリーダーシップによる、現状の変更を願う人たちも増えていきます。

教会は権力者ではなく、虐げられている人の声を大切にしようとする時に、虐げられている人たちは権力者の声を大切にしようとする、すれ違いが生じています。結果として、教会は虐げられている自分たちの声や願いを否定する、小うるさい生活指導の先生のような存在としか映らなくなってきました。先生の前では、先生が納得してくれる「きれいごと」としての「平和」や「人権」を大切にしますと言っておきながら、裏では全く別の本音を抱えている状態なのです。

もはや教会は虐げられている人、小さく弱くされた人たちのすべてに寄り添う存在ではありません。本当に今、寄り添おうするならば、彼らと一緒に強い指導者を求め、中央集権国家を支えることになってしまうでしょう。


だからもう、やめましょう。

生活指導員のような態度で「平和」や「人権」を語るのを。

「権力者は裏切るよ、君を。でもね。その時には(神様が、教会が、ぼくが)君を守るから」と約束を告げておけばそれで良いと思います。虐げられている人をいつか裏切る権力者の本当の姿を暴き、決して裏切ることのない神の約束を、幽閉された場所でほそぼそと発信し続けた記録である、ヨハネの黙示録のように。