いえいえ、AI画像の自分だ。
もちろん、こんなに若くもないし、美しくもない。
フェイスブックのどこかにある自分の写真から勝手にこういう遊びをやってくれる。
面白いので数枚ピクチュアに保存した中の一枚だ。
こんな時代があったのだろうか。
もちろん、若さだけはあったような・・・。
怒涛のような若いころ。
無我夢中で生きてきた。
「ねばならない」にがんじがらめになって周りを見回す余裕もなく生きてきた気がする。
職場と家庭と子育てと・・・。
数多いその当時の写真を見ると、職場の数多くの人間関係の中でそれでも結構楽しそうに写っている。
忙しい中にもその時々で楽しいことはいっぱいあったのだと思うが、押しなべていえば忙しい「模索と怒涛の時代」に行きついてしまうのだ。
ま、それもよかろう。そういう時代があったからこそ今の自分がある。
確かにそうだ!
しかし、人生は長いようで短い。
有名な方々でもテレビ画面であっと驚くことが多い。
若く溌溂と大活躍し人々に愛された俳優にしても歌手にしてもその老いゆく変貌に目を瞠る。
例外なく自分だってそうだ。
自然の摂理と言えばそうなのだが・・・。
自分だって、こんなに齢をとってもコンサートをするなんて考えてもいなかった。
大仰ではないが、聴きたい人が来てくれる小さいコンサート。
人前に立つという意識があるだけで、自分の内部が活性化する。
精一杯の限りを尽くすことをモットーにして毎日を過ごす。
この猛暑の中でも、冷房の効いた部屋にいて稽古をする。
あまりにも暑くて冷房のききが悪いのでレースのカーテンを閉めた。
そういう時は、自分は老体だとはあまり思わない。
思わないが、現実は噓をつかない。
確実に老齢化する。からだが、脳が、気持ちが・・。
齢を重ねて、よいことももちろんある。
もう、模索の時代を終えて納得の時代の中にいる。
もちろん想定外の事件も多々あるが、すべては納得と検証済みの事項だ。
・・と言っても、なんとこの齢になっても知らないことの多いことか!
知らない世界・・というか、人間一生のうちでどれだけのことを知るのか。
ほんの、ほんのわずかな世界だけで生きているのかもしれないと思う。
それでも十分なのかもしれない。
「すべての学問をし尽くした」とされるゲーテの書いた「ファウスト」の主人公。
読んだ時から、そんなすべての学問をし尽くすなんてことは現実にはないのだと分かっていながらファウストとメフィストフェレスの攻防に惹きこまれた。
多くの知識を持つということもだが、どれだけ一生懸命に生きたかということの方が生き方としては大切なのかもしれない。
そして、人々はそれなりに一生懸命生きているわけだ。
季節季節の着るものを入れ替えるたびに、来年またこの衣類を着ることがあるかしら?と・・。
いつかは来るその日が、まだ遠くにあるような気がしながら毎日を好きなように生きている。
若い日の遠い思い出はほろ苦く懐かしい。
やっぱり一生懸命に生きてきたんだよね。
誰もが齢をとる。
いつかは自分の番も回ってきてこの世とさよならをする。
何事もなかったように世の中は回り続ける。それでいいのだ‥と思う。
歌誌の原稿書きの下準備も整った。
あとは20人の佳作に歌評を書く。
早くすればいいのに、いつも締め切りぎりぎりまで書かない。
土壇場の○○ちからをあてにしているずぼらな自分がいる。
短歌の中に世界を知り人を知る。
歌評を書くなんておこがましいことだと思うがこれも2~3か月に一度の恒例になってしまっている。
一枚のAI写真がこんな自分をさらけ出す力を持っているとは・・。