年に一度のピアノ調律

 

中の機械を取り出して丁寧に点検修理をしていく。

 

我が家の一員になって50年ちかく、人とともにピアノも齢をとる。

 

微妙な奥の装置の鉛の留金が古くなって残音のもとになっている。

 

あの美しい音を発生させるのに実に多くの装置が作動するようになっている。

 

アナログの複雑極まる楽器ではある。

 

数年前には、発音装置であるハンマーをすべて取り替えた。

 

フェルトでできているこの装置も齢とともにすり減ったり劣化してしまう。

 

一大決心をして腕のある調律師にハンマーの全交換を頼んだ。

 

数日かけて完成した入れ替えの仕事は完璧で、そのあとは何の問題もなく現在に至っている。

 

都城で購入し、延岡に持って行って9年。

 

仕事と子育てに忙しくほとんど弾いていない。

 

そして、今の住まいに持ってきて36年。

 

かれこれもう45~6年の付き合いだ。

 

長い付き合いがもう少し続く。

 

木製なのによく響く。

 

中の機械の精密さには度肝を抜かれる思いだが、こんな複雑なものを発明するって人間ってすごいなとここでも思ってしまう。

 

安普請の我が家では音が響きすぎるので、蓋は閉めた上に毛布を2枚重ねてかぶせて防音効果を図る。

 

その上にクロスをかけて見場もよくする。

 

老境を迎えたころになってこのピアノと過ごす時間が多くなってきている。

 

弾きながらシャンソンを歌う。

 

ほとんど毎日そういう時間を過ごすが、日によってとても長時間弾いても疲れない時もあれば逆にすぐ辞めたくなる時もある。

 

やっていて思う事はこのピアノの世界の何と奥深いことかだ。

 

確かにこの齢で上達するにはなかなかな努力がいるのだが、それでもやればできるようになるということが嬉しいことなのだ。

 

果てしのないこの道、どこまで行っても終点はない。

 

進めば進むほど今まで見えなかった景色が見えてくる。

 

螺旋階段の如くいつの間にかある程度の高みに登れたらそれだけで幸せだ。

 

膨大な譜面の整頓やそのほかにも人並みな煩雑さを抱えてはいるが、ピアノを弾くについては身を律し(?)笑い・・周りの状況を整えてから弾く。

 

何かが片付いていないと気になって、ピアノを弾くにも集中しない。

 

生きる姿勢をただしてピアノを弾く。

 

これは大げさのようだが当たり前のことなのだ。

 

そして、だれもがそうやって道を究めていくのだ。

 

そんな、道を究めるその一人になって私はピアノを弾く。

 

長い付き合いのピアノのいうことを聴く。

 

「近道はないよ!」

 

いつもピアノは私に言う。

 

「練習よりほかに近道などないよ」・・と。

 

いまさら、道など究められないが少しでも耳に優しい音楽が作れたら・・が究極の理想だ。