つい先日、人を案内していった都於郡城跡。

 

その時の話をしたら仕事の休みの日にドライブを兼ねて行ってみたと言われる人がいた。

 

写真はその方に送っていただいた都於郡城本丸へ上るの石の階段だ。

 

この階段を上ったところに、伊東マンショの銅像が立っている。

 

伊東マンショはこの都於郡城で生まれ、遣欧少年団の一人としてヨーロッパへ渡りローマ法王にも謁見がかなった人物だ。

 

このことについては手に汗を握るような物語があるのだが、都於郡城の落城で城落ちをして大分の大友宗麟の元へ身をよせる事件などこの山の中の城にまつわる話は尽きない。

 

今、この歴史的財産でもある都於郡城跡も、一応手を入れて整備はしてあるのだが何せ広大な城跡の手入れも予算的にも大変なのか、伸びてくる木や草の中に埋没しそうなそんな気配もないではない。

 

別名「浮舟城」と呼ばれたほどの山城だったという。

 

高台の三の丸からは攻めてくる敵軍の動きがよくわかったという。

 

幼いころ父から聞いた話だと、敵に、とても攻められないと思わせるために滝があるように思わせるために白米の米をざあざあと落したとかいう話もある。

 

どこかで誇張されていたのかもしれないが、春には桜が咲き、イトー鳥が鳴き秋は紅葉が美しかったと「ばっかし節」の中に歌われている。

 

「ばっかし節」は幼かった頃に父が作った、城のある都於郡を賛美する歌だ。

 

歌うのは私だけになってしまったが、私がいなくなれば自然とこの曲も消滅してしまう。

 

そういうものだろう。時の流れとともに世の中は変わる。

 

1582年から8年後に日本に帰ってくることのできた遣欧少年使節団。

 

ヨーロッパの人々に歓迎され当時の印刷機や楽器なども多数日本に持ち帰っている。

 

島津軍の攻勢に逃げるしかなかった伊東藩の人々。

 

その大分までの道を実際にたどる人も後を絶たない。

 

できることなら、そんな歴史のあるこの場所を見に来る人々のためにも往時をしのぶことのできる場所として手入れしてほしいものだ。

 

子供の頃の本丸のあたりは、まるでその当時そのままであった。

 

藪の中から帯刀した侍たちが出てきそうな・・下の道を通る時は怖くて速足で歩いたことを思い出す。

 

時間というものはすべてにいて残酷なもので、とどまることなく過去を昔に今を過去にしてしまう。

 

都於郡城のことを調べ上げて資料つくりをした研究会があったが、そのメンバーの方々も齢を取ってしまわれた。

 

若き後継者を求めたが、うまくいかなかったと聞く。

 

しかし、その業績は偉大なもので、資料として残されているという。

 

若い人たちのグループがあるとは聞いたが、詳しく知ることはできなかった。

 

しかし、三財川に川霧がたつときにこの城跡はいまでも浮舟城の如く美しく浮き上がって見えているのかもしれない・・そう思う。