近い親族の訃報があり、夫の郷里薩摩川内市に行くことがあった。

 

言ってみれば天寿全うとも言える年齢ではあったが、長い時間の中の思い出は尽きず悲しみが押し寄せて仕方がなかった。

 

九州を横断するようなことでようやく到着するのに高速を一部使っても3時間半はかかる距離だ。

 

鹿児島県第二の大きさという薩摩川内市はその昔は単に川内市と言っていた。

 

いつのころからか名称が変わり薩摩川内市となったのは、北方の仙台市との同じ響きを区別するものであったかもしれない。

 

人口5万人余の薩摩川内市。

 

悠久の流れ川内川をはさんで街並みがあり国道3号線が通っている。

 

なにより、新幹線の停まる駅がありなんと1時間37分で福岡に行けるとスマホが教える。

 

っちっくしょう!

 

あ、いえいえ、とんだ言葉を発してしまった。

 

陸の孤島と言われる我々の住処からすれば夢のような場所なんだ。

 

その新幹線の発着する薩摩川内駅に隣接するホテルに宿泊した。

 

空気感がまるで違うと思うのは自分だけなのだろうか?

 

違って当然なのだろうか。

 

薩摩と日向・・。

 

ちがう!

 

小さな旅行をしたと思えば違ってくるのはありうることで日常とは違う非日常がある。

 

こうした祀りごとに集まる人々の生きざまをつぶさに見ながら・・ということは自分も見られているということなのだが、そのしっかりした足取りに感心したり圧倒されたり感動したりするのだ。

 

葬儀の様相も代わり、今は家族だけの小さな葬儀場がたくさんできた。

 

今回のは会場も自宅で‥という形だった。

 

自宅に棺を置き親しかった人たちが集まって読経を聞き棺を見送った。

 

火葬場で骨を拾い、箸から箸に渡して骨壺に収めて・・形あるものが一つの陶器の壺の中に納まってしまう。

 

その流れを小さい子供たちも含めて居合わせた者たちで見ている。

 

それぞれの人生の中の一コマではあるのだ。

 

この居合わせた人たちといつまた会える?

 

いえ、多分もう会えない。

 

そう思いながら見えなくなるまで手を振って見送った。

 

元気でいようねぇ!

 

ありがとう!の言葉が自然出てくるひと時だった。

 

幾度も幾度も行った薩摩川内。

 

中越パルプの製紙工場があり、川内川が流れ、大綱引きの勇壮な祭りがあり、新田神社があり、新幹線の停まる駅があり、そして川内原発がある。

 

新緑の美しい山道を走りながら、車内の勝手気ままな雑談を楽しみ・・そんなこともさせてくれた野辺の送りから現実に戻った。

 

人生とは・・凡なる自分にはわからないまでもこんなものなのだろう。