視力低下を実感している。

 

よく見えないというのは

こんな感じだったのか…泣

と、目が悪い人の世界を味わっている。

 

 

けれども、私はコンタクトレンズも

眼鏡も使っていない。

 

コンタクト怖いし

メガネ鬱陶しいチーン

 

 

よほど見たいものや

見る必要があるものだけ

メガネをかけて見ている👓

 

 


 


視力が低下し始めた頃は

「見えにくい」ということを

とてもストレスに感じた。

 


朝のラン&ウォーク中も、

遠くの看板や案内板などが

近づかないと読めないし、

 

足元の段差や落下物も見えにくい。

 

それで、メガネや

度付きサングラスを作ったけれど

結局使ってないチーン

 

 

近頃は、見えないことに慣れてきて

見えなくてもいいかな笑

と感じている。

 

いやむしろ、

これまで見えすぎていたんじゃないか凝視

とさえ思っている。

 

どうしても、という時だけ

メガネをかけることにしたら、

 

どうしても見たいものなんて

それほどなかった照れ

ということに気づいたからだ。

 

 


例えば

目の前で話している人の表情。

 

例えば

家の中で油断している時に

ふと目に飛び込んでくる鏡。

 

例えば

テレビのバラエティ番組の

誤字だらけのテロップ。

 

例えば、

ネットのグロ広告。

 

どれも、見えたら見えたで不快だし

気にしても仕方ないことが

気になってしまう。

 

 

見えなくなったら

余計なストレスが減った指差しスター




最近「ニュースに疲れている人」が多い

という記事を読んだ。

 

戦争や貧困や差別。

いじめや殺人事件。

人間関係のギスギス。

なんちゃらハラスメントや炎上。

そんなんばっかりで。

 

毎日、多くの人が

残酷な目に遭って

不条理に死んでる

 

 

私は、以前は、それらを

直視しなければならない

目を逸らしてはならない

知っていなければならない

と思い込んできた。

そんな風に誰かに思わされていた

気がするチーン

 

 

ニュースは悲しいことばかり

 

 


 

なのに、そういう記事やニュースを

目の当たりにして、深く知ったところで

ただ悲しくて悔しいばかりで

私にはどうにもできないのだ。

 

私にどうにもできないばかりか、

世界中の誰にもどうにもできない。

 

歴史の中では、立派な人が登場して

自分の人生を投げうって解決したり

エライ人が事をうまく運んでも

また、しばらくしたら、別の地で

同じことが繰り返されるのだ。

 

こんなことを知って、

意味があるのだろうか?不安

 

どんな意味のあるストレスなんだ?悲しい

 

乗り越えることもできない

解決することもできない

悲しみに慣れていくだけなんて。



 

YouTuberという職業が登場して久しいが

私は、目的と用事のある時以外、

YouTubeは見ない。

 

人気者がたくさんいて、

おもしろい番組やおもしろい話題を

提供していることは知っている。

 

けれども、私は

自分の視力を惜しむ

 

細かいものや、チカチカしたものは

目が疲れるし、霞む。

長時間になると、頭痛もしてくる。

私の目の使用時間

使用量は有限なのだ。

 

私はこれまで視力が良くて

たくさんのものを見てきたし

たくさんの文章を読んできた。

中にはくだらないもの、醜いものも

たくさんあった。

 

 

けれども、人生の後半。

見たいものだけを見たい凝視

 

私の視力の残力はそれだけで

いっぱいいっぱいなんだ

ということに気づいた。

 

 

だから、悲しいもの、醜悪なもの

くだらないもの、汚いもの

ストレスの溜まるものは

極力見ないことにした。

目にそんな余力がない目

 

 


私は老いてきた自分の目

栄養になるものだけを見せたい。

 

美しいものや素晴らしいもの、

私を幸せにしてくれるものだけを。


 

私は、視力が低下してから、

見るべき価値のあるもの

見るべき価値のないもの

区別するようになった。

 

目を大切にするようになった。

 

きっと「命」にも同じことが言える。

なぜなら、人生の後半に突入して

「命の限り」を意識し始めてから

それは輝きを増しつづけているから。