稲畑汀子(1931〜2022)百句(西村麒麟選)

『汀子句集』
今日何も彼もなにもかも春らしく
あたゝかや笑つて写真撮ることに
夏の月美しきものそれは心
避暑の娘に馬よボートよピンポンよ
春めきて髪を短く切ることも
スケートに乗れば忘れてしまふこと
登山杖まとめて買ひてくばられし
雛の菓子紐ゆるきまま手に下げて
あぢさゐの色にはじまる子の日誌
ドライブの女ばかりのサングラス
子供等に泳げる母を先づ見せて
人事と思ひし河豚に中りたる
香水を借りもし旅の親しさに
簡単にスキーに行くと云はれても
昼寝するつもりがケーキ焼くことに
『汀子第二句集』
春らしく装ふことも旅衣
穴惑バックミラーに動きをり
これよりの梅雨を楽しくする傘に
よく焼けてゐても小鳥の姿あり
波音を近づけてゐる端居かな
踊下駄先づ買ふことに阿波の旅
風花をこぼせし雲の遊びをり
一本といふ華やぎにある桜
さくらんぼ口にあまさの新しく
鉦叩昼を淋しくすることも
青春の一歩は重し卒業す
落椿とはとつぜんに華やげる
母の日の母を忘れて旅にあり
鶴の朝はじまつてまだ暗かりし
風白しマーガレットを野に置きて
初髪の結へざるままにあるもよし
『汀子第三句集』
運転の春著草履を履き替へて
東京は雪と聞きつゝ伊豆の湯に
初蝶を追ふまなざしに加はりぬ
鉾のこと話す仕草も京の人
毛虫つけ来しわが肩を怖れをり
津軽弁涼しく聞いて分らなく
早春の心きらめく須磨にあり
心意気神田祭はすたれずに
『障子明り』
初泣の又抱き上げてしまひけり
一花よりみなぎる力初桜
花の旅終へしばかりに花の旅
松茸といへばいへさう恐ろしき
人生の耐へねばならぬ秋深し
この出逢ひこそクリスマスプレゼント
ラグビーの泥の勝利の腕挙げ
一枚の障子明りに伎芸天
雪雲の支へきれざるものこぼす
『さゆらぎ』
三椏の花三三が九三三が九
夕立の気配たちまち音となる
じつとしてゐればさすがに山の冬
初鴨や堅田に名酒ある限り
枯山へ張りつく宿へ至る径
がたと榾崩れて夕べなりしかな
福笑よりも笑つてをりにけり
紅梅や歩くと決めて歩き来し
花抜けて来しと次々現れし
好き嫌ひ一応尋ね鰻めし
住職の留守に昼寝をせしは虚子
快晴といふも露けき横川かな
落葉して景色広がりゆきにけり
『花』
秋に来て花の予約をすることも
一人又一人吉野の花の跡
如意輪寺見上げすなはち花の景
花はもう終りましたと吉野駅
桜色着て花心満開に
旬のものどれも手作り花の宿
夕影の花より花へ移りけり
快晴の朝のはじまる桜かな
『月』
月の波消え月の波生まれつゝ
月見えぬ側のデッキに月の波
月光をこぼさぬ雲の暗からず
能登の旅日本海の月に沿ひ
戸締りに出て満月でありしこと
月見えてゐしと船内電話駆く
月の宴晴を信ずる人ばかり
満月のために晴れたる夜空かな
深々と満ちゆけるもの月今宵
『風の庭』
束ねたるより水仙の香の一つ
田楽の味噌に汚して指と口
悴みて地震の夜明を待つばかり
春の水甦りたる蛇口かな
目高より大きな餌を与へけり
思ひ出につながつてゆく春の風
焦げ目ある餅の香の立つ雑煮かな
雑魚寝ならみんな泊まれる夏座敷
雪を舞ひ月を舞ひ鶴帰りけり
箱庭で遊びし昔杞陽亡し
これほどに役に立つとは秋扇
子規の心虚子の心や秋彼岸
笑初何かいたづらしさうな目
み吉野の朝のはじまる百千鳥
雛の間を灯したるより座談会
秋晴の蝶白も黄も黒も舞ふ
日本橋生れの母に震災忌
歌留多会正座崩してより強し
皆知つてゐる年玉の中味かな
秋の夜の一人の自由とは淋し
亀鳴くや書きはじめたる写生文
一片の落花にどつと山の風