セオ・ハミルトンの弱いブログ

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お手やわらかにお願いします

駅や商業施設のトイレに

センサー式の蛇口が採用され出して

10年以上経っていると思うが

 

いくら手をかざしても水が出なかったり

まだ手が泡だらけなのに水が止まったりして

必要とされるタイミングで水を出さないものが

すごく多い。

 

 

いち製品として不完全なのもそうなんだけど

 

たとえば3つ並んでいるのなら

ひとつでも旧来の蛇口を残せば

選択の余地ができるし

停電の時も困らないしで

対応できる場面も広がるはず。

 

 

製品を完璧にするか

オペレーションでカバーするか

どちらかして欲しい。

 

 

 

それに

メーカーの人間や施設の担当者も

エンドユーザーとして不都合を感じてるはずでしょ?

 

 

それで現状

こんなに改善ができてないってことはさ

 

仕事の要点が

「ユーザーの使い勝手」じゃなくて

「シェア」やら「手配・根回し」のほうになってしまってる

現れなんじゃないの?

 

 

 

 

「人間が生きることに価値はあるか?」なんていう問いに

ぼくが答えるとしたら「ある!」だとは思うが

 

そもそも「価値」ってのは

人間の頭でこしらえるものだし

時代によっても変わるはずだから

「生きる」と比べてだいぶ後まわしのやり取りでしかなく

 

「価値」なんぞが「生きる」を規定するなんて

おこがましい。と考えることもできる。

 

 

 

ぼくが5歳くらいのころ

冷蔵庫にシールを貼った記憶がある。

 

そのシールの模様が

「マジンガーZ」でも「冷蔵庫に価値は無い」でも

冷蔵庫はお構いなしに動き続けるわけで

 

そうするとなんだか

その文言について議論する気が起きない。

 

 

 

 

ぼくが「人間に生きる価値がある」派として

「価値は無い」派の人に論破されたら

 

「それじゃこれから人間に生きる価値は無い。でいいですね?」

って言われると思うんだけど

 

ぼくはその時

ちゃんと「負ける」ことができなさそうで

 

参加しといて負けを認めないのは卑怯だと

責める人の気持ちもわかるが

やはり設問ミスという気持ちは抜けないだろう。

 

 

人間社会で

特によその人に向けてや

技術的な事項については

 

正しいことを言わなきゃいけないし

それができないと

大人同士のやりとりに入れてもらえないわけだが

 

 

それに慣れて、というか頼りすぎて

生活全般で常に

「正しい」ことに重きを置くと

円滑にコトが進まないことがある。

 

 

「正しいこと」や「お金」は

万能に見えてしまうが

 

やはり力を持ってしまってる分

相手には心地良くないというか

道具的なんだよね。

 

 

ネコって

「正しいこと」や「お金」を使わないよね。

 

使えないってのもあるし

それが強みになっている。