愚僧日記3

愚僧日記3

知外坊真教


80年前と50年前二つの終戦

 昨年2025年は、太平洋戦争終戦八十年でした。そして昭和という元号を数え始めて百年でした。しかし、そのことで世論は盛り上がりませんでした。戦争を振り返ったり、どこでどう誤って戦争が始まったのかという歴史に学ぶ機運は思ったほど盛り上がりませんでした。


 そしてもうひとつ、昨年はベトナム戦争終戦から五十年でもありました。沖縄の米軍基地から北ベトナムに向けて爆撃機が大量の爆弾を落としに飛び立ちました。圧倒的な戦力差でも、アメリカは敗れてベトナムから敗走しました。アメリカは日本で広島長崎に核兵器の惨状を作り出し、ベトナムでは枯葉剤を使い、その後多くの奇形児が生まれるという惨状を作り出しました。戦争は何も生まない、暴力は悲しみと憎しみしか残さないのです。八十年前と五十年前に悲劇的な結果を目の当たりにしても、人間は学ぶことなく、今もウクライナや中東やアフリカで戦争を続けています。


憎しみは平和を生まないという真理


 今は戦場の悲惨さがリアルタイムで映像として見られます。それどころか、ビデオゲームとして娯楽にすらなっています。
 この「きりく」で何度も掲載しましたが、かつて第二次世界大戦後、1951年のサンフランシスコ講和会議において、


  憎しみは憎しみによって止むことはなく、慈愛によって止む(意訳)
 

 というお釈迦さまの言葉を引用して、スリランカ(当時のセイロン)の蔵相だったジャヤワルダナが日本に対する戦時賠償請求を放棄する演説をしたことを掲載しました。この名演説の背景には、ドイツが第一次世界大戦後の過度な賠償請求によって混乱した挙げ句にナチス政権が生まれたという、戦後処理の反省を踏まえた名演説でした。この演説を契機に連合国側からの戦時賠償請求は過剰に課せられませんでした。もし日本が過大な賠償請求を課せられていたら、おそらく今の繁栄はなかったでしょう。お釈迦さまの「憎しみは憎しみでは止まらない、愛によってのみ止まる」という言葉は、歴史も証明しているのです。
 

 しかし、日本を救ったお釈迦さまの真理をストレートに説いたこの言葉をメディアから聞くことは、今では皆無です。しかし、第二次世界大戦終戦八十年、ベトナム戦争終戦五十年でしたからこそ、この言葉は注目して欲しかったですね。ところがマスコミは、憎しみを焚きつけるような報道ばかりです。今では世界中の人たちが、憎しみの言葉や、人を罵る言葉を日常的にネット社会に吐き出すことに快感すら持つようになっています。 
 

言葉だけではない気持ちの伝え方
 

 ネットに溢れる汚い言葉や、罵るような言葉は、実は私たちが実際に体験している事象から発している言葉はほんの一部です。この平和な日本では、そんなに酷い体験をしている人はほんの一部です。そして、実生活の中では、言葉で憎しみの言葉を出さず、ほとんどの人が穏やかに暮らしています。ネットに吐き出している事と、日常とは大きな解離があります。ホントに体験して出てくる言葉は、もっと純粋でぬくもりのある体験にもとづく言葉なのです。
 

 まず、私たちは言葉だけでコミュニケーションをしていません。たとえば、言葉の通じない赤ちゃんには、母親ならば名前を呼び、あたたかなまなざしを向けます。それだけで子どもは泣き止み、微笑み返してくれます。赤ちゃんは対面する人の目を見て自分にかまってくれていることを察知します。うわの空でかまっていますと、視線が自分に向いていないことが分かるだけで泣きわめきます。逆に何も言わなくても、視線を合わせて見つめるだけで、多くの子どもは泣き止んでやがて微笑み返してくれます。この時は、下手に言葉を掛けない方が、子どもはしっかり見つめ返してくれます。どなたでも一度試してみると分かります。


 赤ちゃんと向き合いますと、あんなにやさしいまなざしや言葉掛けができるのです。ネット上ではなく、ちゃんと人と向き合って五感で感じて繋がれば、罵り合いや、誹謗中傷は出ないのではないでしょうか。
 

感じてつながるのが御祈祷
 

 人間は五感で感じたことを言葉にしているのです。確かに人間は視覚で感じる事が優先されて考えます。見た目が一番なのですね。しかし、それに音や臭い、感触が加味されます。ネット上のコミュニケーションではできません。長仙寺で御祈祷する方の中に、塗香という手に塗る御香をしないと長仙寺に来た気がしないという方がおられます。御祈祷という体験をする時は、正しく座り(身)、手をお香で清め(鼻)、お経や真言を聞く(耳)という言葉だけではない体験をしているのです。御祈祷をしますと、ある人は身が引き締まると言い、またある人は、ほっとして気持ちが楽になるという方もいます。


 御祈祷は、そんな五感で感じる体験です。そしてつながる体験でもあります。私は御祈祷をしながら、まず私自身が慈しみと哀れみの気持ちを高めます。そして正しい行いと、慈しみ深い行いを高めて貰うために真言を唱え、皆さんのカラダに呼びかけます。その呼びかけに不思議な“繋がっている”と感じられることが、私の喜びです。御祈祷というのは、実は私たち行者と、お参りする方々と仏さまの一体感の対話とも言えると私は考えています。
 

菩提心をもって祈り念じる
 

 そんな一体感の中での対話をする前提として、気持ちが向き合っていなければなりません。それが菩提心とも言えます。菩提心とは、向上心とも、可能性とも言えます。私たちが御祈祷をするときも、どうなりたいか、どうしたいかという気持ちを大切にします。つまり何を願うのか(願目)ということです。願目というと、自分の欲望をあからさまにしますので、ついつい控えめに話す人がいます。しかし御祈祷をするときは、もっと積極的に何を願うのか念じて欲しいのです。心から何を願っているのか、実生活では口にしないものです。しかし、そういう願いを念じて言葉にする営みが、私たちの心を豊かにします。人を罵ったり、羨んだり、蔑んだりするのではなく、自分や大切な人の為に何を願うのか、御祈祷の時は、しっかりそれを念じて欲しいですね。