現代まで受け継がれ、剣道高段者が真剣の刀法を学ぶ為に入門することも多い「居合」は、ときに「抜刀術」と呼ばれることもある。


 流派は多いが、殆どの諸流が流祖としているのが、室町末期(戦国時代)に実在したと言われる林崎甚助という人物だ。



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 この林崎が抜刀術に開眼した時の逸話が実に面白い。


 足利義晴に典礼を以って仕えていた父の浅野数馬は、何かの原因で東北・出羽に流浪してきて楯岡豊前守という大名に召抱えられたという。

 侍とはいえ、お役目は文官のほうだ。 家中の美貌の娘を娶って一子(甚助)をもうけた。

 ところが、礼法上の意見の行き違いから坂上主膳なる者に遺恨を持たれて闇討ちに遭い、殺されてしまった。


 出奔した坂上主膳を討って武士の面目を保ち、お家を再興するのがまだ八歳だった甚助に課せられた宿命となってしまったのだった。

 当時、仇討ちは合法であるばかりか、意趣を晴らさない者を卑怯として卑しむ風さえあったわけだから、当時の日本というのは何とも蛮風に満ちた国だというほかない。


 母に励まされながら幼少から剣術の修業に励んだ甚助だったが、生まれつき非力で不器用だったらしく、一向に上達しない。

 期待を裏切るかに見えた甚助だったが、十四歳で神社に参籠してついに百日を数えた時、神の啓示を得て抜刀術を授かった、という。


 ここで面白いのが、甚助が非力であったこと。それにも拘らず武士の面目を保つために仇を討つ必要がどうしてもあったことだ。

 居合の技術というのは要するに「抜き打ち」の喧嘩剣法。場合によっては「騙まし討ち」に近い。

 抜き合って正々堂々と勝負をすることが出来なかった甚助が、追い詰められた挙句の果てに考え出した必殺技だという点が、何とも面白いではないか。


 それまでの日本の剣術には「抜刀術」という発想は無かったし、日本と並んで武術王国と言ってもいい中国にも「抜きながら斬る」という武術は無いそうである。それだけ斬新な発想で発明だったわけだ。


 甚助は自分の発明した技術を更に磨いて十八歳の時に仇討ちの旅に出る。二年後に京に潜んでいる仇敵・坂上主膳を発見して見事本懐を遂げた。もちろん、居合で斬ったのだろう。
 居合は「居合わせる」という意味がある。


 ところが母のもとに戻ると、何とその母は既に他界してしまっていたのだった。

 失意のうちに出奔した甚助は諸国流浪の旅に出て、自分の開発した抜刀術を更に磨いて体系化し、これを伝えてまわって生涯を送ったという。


 話が出来過ぎているから脚色もあるのかもしれないが、加藤清正に招かれて家臣にこれを指導したという話も伝わっており、この林崎を流祖とする流派は林崎夢想流のほか、田宮派抜刀術、長谷川英信流、関口流、夢想神伝流などなど枚挙にいとまが無い。

 また殆どの剣術諸流が抜き打ちの技術を型の中に取り入れるようになったことから見ても、日本の武術に対する発想面での影響は大きかったのではないか。

 うがった見方をすれば、太平洋戦争開戦時の「真珠湾攻撃」も、この林崎の抜刀術の発想の所産と思えなくもない。


 自分も大学空手部の時分に田宮派の立居合を学ばされたことがある。「居合の勝負は鞘の内」という。抜く前に既に勝負が始まっている、という発想、緊張感がいい。


 林崎甚助は、郷里・山形県でその名も「林崎居合神社」という所に、今も神として祀られているらしい。合掌。



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