足を前後に構える。
左足の膕と下腿を張り、体重を左右均等に乗せて立つ。
自然体からノーモーションで、フッと右脚の力を抜く。
いわゆる「膝を抜く」、というやつ。
つまり、膝カックンと同じ状態を作り出す。
左脚はそのままで右足だけ膝カックンになると、自然に身体が前に倒れこもうとする。
この前へ倒れこもうとする力を「初動」として使う。
◆そのままでは本当に倒れてしまうが、実際は右膝をやや上、前方へ引き上げる。
と同時に、左脚で床を蹴り出して体を前へ進める。
膝を引き上げながら左足を蹴り出して地面からの反発力をもらう。
但し、蹴りすぎてはいけない。
反動をつけて前へ跳ぶ、というのでは蹴りすぎである。
体勢を崩さない程度に、そして体が前へとよろめく力を初動として上手く使える程度に蹴り出していく。
間合いの点では、より遠くへ蹴り出した方が良いが、蹴り過ぎは技の崩れを招く。
したがって、いわゆる一足一刀の間合いは上背に比例する。
また、加齢に伴う筋力の衰えとともに、打ち間が近くなるのは当然である。
◆上体は、身体がよろめき始めると同時に、或いはやや遅れて木刀を振り上げ始める。
ただし、あまり大きく振りかぶってはいけない。
なるべく小さく、コンパクトに振りかぶる。
そしてもちろん、出来るだけ速く、武蔵の言う石火打ちでなくてはならない。
◆肩、肘、手首をすべて柔らかく靭やかに使う。
足腰で生み出した力を体幹で増幅し、その力をそのまま打ち込みに生かすように上体を使う。
したがって、腕に力を入れてはならない。
力をなるべく抜いて、腕は足腰と体幹で生み出した力を伝えるためだけに使うように心掛けていなくてはならない。
武術の全ての技において、体幹が主、腕は従である。
力を入れるのは、打ち込みを決めた一瞬、手の内を利かせる時だけである。
◆足で打つイメージ。
左脚で床を蹴りだした力を、そのまま竹刀の物打ちに乗せる。
これが前へのベクトルになる。
現代剣道では摺り足ではなく踏み込み足を使うのであるから、踏み込み足の特性を上手く使わなくてはならない。
踏み込み足は、階段を1~2段、あたかも落ちるように下りる感じで使う。
これが下へのベクトルになる。
前方向と下方向へのベクトルが一体化して「打突」の力になる。
したがって剣道の打突は基本的に「押し切り」になる。
前へと倒れかけて、踏み止まろうとするその瞬間に「打つ」のである。
◆素振りや剣道形、居合道の切り付けの時ように、摺り足で平行移動し、上体は振りかぶって振り下ろすのでは二挙動になる。
二挙動になると遅くなる。
当然、相手に読まれてしまう。
振りかぶって振り下ろすという二つの動きを、一挙動で行なうところが、諸手で一刀を扱う日本式剣道の難しいところでもあり、また同時に技術の真骨頂でもある。
イメージとしては甲野善紀の「井桁崩し」のようになる。
平行四辺形がぐしゃっと潰れていくようなイメージで身体を使えば、色がなく、モーションの小さい、しかも体重の乗った威力のある鋭い打ち込みが可能となる。
◆肩の力を抜き、上体の力みを全て取り払い、丹田以外の全ての無駄な力を取り払う。
力みが無くなると、心も自由になる。
無心になると、感覚が研ぎ澄まされて不思議な集中力が働くようになる。
相手の心がそのまま手に取るように分かることがある。
攻め合いの中で、相手の考えが自分の白紙の心にそのままテレパシーのように伝わってくる。
あるいは未来予知のように、ほんの僅か数秒先までではあるが、未来が読めるように感じることさえある。
たった数秒先であっても、相手より先をいくことが出来れば武術の勝負では決定的に有利になる。
無心の境地に至った者が通常の者と戦えば、頭の中で相手の動きと自分の動きがはっきりとした映像になって浮かんでくる。
そして頭の中で読んだ動きを、現実がスローモーションのように追いかけていく......。
数秒先を読める達人同士が対峙すれば、理論上は戦いにならない。
これが武蔵の言う「絶対不敗」の境地であり、針谷夕雲の言う「相抜け」であり、双葉山の目指した「木鶏」であり、『猫の妙術』で描かれる「古猫」である。
しかしここまでくると、武術を突き抜けて、別の世界へ行ってしまう......。
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戦氣 寒流月を帯びて澄めること鏡の如し 宮本武蔵