師匠と話した 永久保存版 | ヤサグレもんの戯言

師匠と話した 永久保存版

⬛️師匠と話した

   何年振りだろう。

   しばらく、話した記憶はない。

   画廊に電話をしたところ、まだ存命だと聞いた。

   本人に確認後、電話をしますと言われる。

   ネットで検索すると、驚くほど早く連絡先は見つかり、すぐに電話した。

   それは懐かしい声だった。

   出会った頃の話をした。

   そして、師から出てきた自分への思い出は

   「君の描いた画は、群を抜いて凄く上手かった印象が強い」

   だった。

   画は、嘘をつかない。

   師は、自分の描いた画を覚えていた。

   画が上手いと、師に言われた記憶はない。

   独特の世界観やら、独特の画風と言われた記憶はある。

   当時、美術準備室で丸缶に入ったPEACEを吸う師匠と一緒にブラックコーヒーを毎日、飲むのが日課だった。

   夕方のコーヒーを飲む事が許される唯一の場所が、美術準備室であった。

   部活の名前は、絵画部。

   ウチの師は、美術部という響きを嫌った。

   それは、本職が画家であるという師の意地だった気がする。

   美術とは、漫画から絵画、舞台美術ら、全ての芸術を含むからだ。

   そして、誰よりもモノマネを嫌った。

   幾つの美術展を観に行った事だろう。

   100の画を観て、100で割れば、1のオリジナルが生まれる。

   それは、師から教わった事ではない。

   ただ、師が卒業した東京芸大の授業や、パリ留学の経験を空気感で感じていた。

   画というのは、学ぶものでもあるが、感じるものでもある。

   間違いなく、東京芸大で受けるべき授業を受けていた。

   あの夏ほど、油彩に没頭した事は記憶にない。

   デッサンとは、どういうものであるか?身体に叩き込んだのも、あの夏であった。

   遠近法も、あの夏覚えた。

   だからこそ、勝海麻衣の画がバランスが悪いと語れる。

   師は、当時の東京芸大学長レベルの講義を自分に体現させた。

   そんな経験を、誰がさせてくれるというのだ?

   キセキの出会いでしかない。

   選択科目である美術の授業は、絵画部員にとって自由な時間が与えられていた。

   自身の描くべき画を、自由に描く事が許される時間であった。

   入部当初、抜くべき人がいた。

   自分の前の絵画部部長である。

   自分は、その絵画部部長の画が大嫌いだった。

   それは、その部長の画には、師の筆が入っていたからだ。

   そんな画は、その人の画ではない。

   そんな部長の画は、テキトーな賞をテキトーに受賞していた。

    オリジナルではない画で賞を獲り、何が嬉しいのか自分には理解出来なかった。

   師というのは、部員の描く画に筆を入れたがる。

   アマチュアの画に、プロの筆が入った画は、自分にとって非常に気持ち悪いものであった。

   だから、自分は師の筆跡を全て、自分の画から消した。

   他の高校の画のレベルに、興味は無かった。

   とにかく「自分だけの画」を描きたかった。

   そして、中学時代の美術教師が成し得なかった賞を獲る自信だけは、漠然とあった。

   その美術教師も杓子定規な画力しかなく、何故、教師をしているのか?不思議でならなかった。

   いよいよ、誰も買う事ができない自分の画が、以下である。

油彩 30号 ◯◯美術展推奨受賞作品

   本ブログ初公開である。

   自分自身、この油彩を写真以外で観た記憶があまりない。

   自宅にはなく、出身校の玄関に飾られていると聞くからだ。

   生まれて初めて描いた油彩。

   この作品により、日本国内の高校生中、上位1/47人にはなれた。

   人とは、不思議なもの。

   この後にも、いくつかの作品を描いたが、画風は決まった気がする。

   当然、全く異なる画風の作品もある。

   それらの「個展」に出会われた方はラッキーであろう。

   この作品以降、無償で画を描いた事はなく、描いたとしても、販売する事を一切やめたからだ。

   そして、この「作品」により、前部長だけでなく、中学時代の美術教師のレベルを超えられたと実感できた。

   この作品は油彩として「処女作」ではあるが、「油彩とは面白いものでなくてはならない」と、体感した。

   当然、この作品に対する「賛否両論」あるであろう。

   だが、尋ねたい。

   楽しく画を描けているかい?

   この画は誰かの作品に似ているかい?

   誰かの画を参考に描いたのかい?

   この画の最大のポイントは、ビーナスを柱のある渡り廊下に連れ出し、古代ギリシアには存在しなかったであろう空き缶を融合させた点だ。

   少なくとも、当時の自分は渡り廊下にある柱が、パルテノン宮殿の柱に見えたのである。

   そこに、現代を合体させたかった。

   この文章を書くにあたり、先に述べた師の言葉である

   「君の描いた画は、群を抜いて凄く上手かった印象が強い」

   ほど、自分をドキドキさせるものはない。

   残念なほどに、多作家ではない自分の中には、表現しきれないほどのアイデアがある。

   それは、勝海麻衣の卒業制作を遥かに凌ぐ。

   近い未来に、もう一度、筆を握るかもである。

   その場合は、画集として皆様と出会うかもしれない・・・。