一杯の茶など | 合歓の花

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『一杯の茶など』




藪北木曾次の丸太小屋に種子という女が訪ねてきたのは二年前。
種子は四十も半ばを過ぎているようだったが、その透き通った肌は若い娘に劣らぬ程の艶やかさを保っていた。



ごめんくださいと大人し気に小屋の戸を叩いて木曾次がボソッとさぁお入りくださいと言うと、彼女はまるで馴れた子犬のように中に入ってきた。

木曾次は普段世間の人らと交わることはなく、独りで物を書きそれを出版社へ送って収入を得ていた。



木曾次は遠慮がちに《なにか御用・・・》と言いかけて最後まで言うにはあまりにも不躾なようで黙って丸い木の株の椅子を差し出した。

ふたりは何も言わず女は木曾次に何か言ってもらいたげに上目遣いで木曾次をみたけれど、木曾次はなにしろ突然のことなので何を言っていいのか分からない。黙ったままもぞもぞ自分の膝をさすりながら次に何をしようかと考えていた。

あの・・お邪魔しました、また来させて下さい。
はぁ、またいつでもどうぞと木曾次は戸口から出て行く女を見送って静かに木戸を閉めた。



丸太小屋の木戸の蝶番(ちょうつがい)が壊れていることはもう随分前から知っていて開ける度にバタンと大きな音で開き過ぎるのが気になっていたがそれでもそれでいいとそのままにしていた。



でも今日はちがった。突然やる気になり釘と釘抜きと金槌を持ち出してトンテンカンテンやりだした。
小一時間ほど作業して不都合だった木戸はぎぃ~っと調子よく開閉ができるようになった。



木曾次は自分の脳が動き出してその指令で手が働いてくれるのを実感した。
あの女がごめんくださいと部屋に入ってきて何も言わずに帰って行っただけで自分の脳が動きだしたことに歓びを感じていた。



書き物の方も次々ネタが浮かび独りでいることに満足していた。
世間的な付き合いに病み独り篭って書き物をしていた木曾次の脳に一つの灯りが点された。



人間の精神とは左様に不思議なものだとそれを書くことで木曾次は今夢中になっている。
もしもまたあの女が木戸を開けて入ってくることがあれば、何か話をしよう自分の今まで歩いてきた道を、そして一杯の茶でもふるまおうと思っていた。