この世で平和を願わない人はいないだろう。
きっと。
それは、中共や、これからの管理社会、世界統一政府を実行、実現しようとしている人たちも。
思想の違う反乱分子のいない世界、世界の皆んなが同じ思想になったら世界の秩序が保たれる、というある意味それも彼らなりの平和を求めてのことだ。
そう、普通はそう考えるのだ。
皆んなが同じ考えの人が集まる世界になればきっと平和だろうと。
それが平和な世界だと。
だから、先ずは自分の周りを平和にしようと考える。
非常識な人間や不道徳な人間、自分とは合わない人間を、平和という秩序を守るために、自分の考え(社会のルールや常識を守ること)と同じになるように矯正しようとする。
同調圧力や刑罰などによって、自分の平和を守ろうとする。
平和とは何だろう?
それは自分(マジョリティ)にとっての平和な世界なだけで、その相手(マイノリティ)にとっては平和でない世界だ。
強制される世界だ。
自分という自由を認められない世界だ。
排他主義が平和なのだろうか?
それは単なる利己主義であって、そのやっていることや思想といったら、中共のそれらと何ら変わりない。
平和というものを強制的に作ろうとしているに過ぎない。
“強制”という時点で、それはもう平和という概念とは相反するもので平和ではない。
もしそう見えたとしても、それは見せかけの平和だ。
恐怖政治か、人々の我慢か、自分で考える意思の抜かれた人間たちが集まって作られている世界だ。
では、改めて、平和とは何だろう?
それは決して作ろうとするものではない。
自分の周りを変えようとすることではない。
一人一人が、自分が平和であろうとする心だ。
周りは関係ない。
自分の心が平和であればいい。
平和とは与えられるものではなく、作るものでもなく、自分の内から起こる自発的な感情だ。
そうなれば、あっさりと世界平和は達成される。