たとえば、写実的なデッサン画。
その完璧さとその技術というのは素晴らしいけれども、何人もの人が描いた写実的なデッサン画は、同じアングルから撮った何枚もの同じ写真のように、どれも同じにしか見えず、個性が滅する。
厳密に見れば、絵のタッチなどで個性は出るのかもしれないけれど。
他には、美人と言われる人を何人も寄せ集めてみると、どの人も似たり寄ったりの同じ顔にしか見えなくなったり。
あとは、大量生産の商品。
どれもが同じ完璧な仕上がりを求められていて、他とちょっとでも違うモノは欠陥品としてハネられる。
画一化が完璧さだと言わんばかりに。
そう考えると、未熟さというのは、その人の強烈な個性になり得る。
上手さなんて気にせず、下手でも好き勝手に描いた何人もの人の絵にはきっとどれも同じものがないだろう。
そして、そもそも私たちというのは個性的でありたいのか、画一的でありたいのか。
その方向性が定まっていない。
スピリチュアルで言われる、ありのままの自分でありましょうというのは、個性的でありましょうということだろう。
にもかかわらず、私たちが目指しているのは、悟りや許しや手放しといった画一化。
一般的に悟った(と言われる)人のイメージというのは大体が同じものだろう。
そして、皆がそれを目指すということは、私たちが画一化するということ。
私たちは未発達で未熟でいていい。
完璧を目指さなくていい。
目指したい人は目指せばいいけれど。
それがきっと個性で、自分らしくあるということなのだろうと思う。