一緒に学んだメンバーとは、特別仲良くなることもなくあまり仲間意識はなかったけれど(最後の2回辺りからは親近感は湧いて来たけど)、最後に記念で撮ったメンバーの集合写真を見ると、やっぱり仲間だったんだなぁとしみじみした感じで思った。
良い体験が出来たな。
その最後の講座から家に帰って、何だか心にあったもやもやを払拭したくてアシュタンガヨガの自主練をした。(まだ始めたばかりの初心者なのでほぼ太陽礼拝と+α)
自主練は、アシュタンガヨガのクラスを初めて受けた日から継続している。
すると、左太腿の裏の筋を痛めた。
その前は左肘。そこもまだ痛い。
何故だか左ばかりだな。
この前初めてプライマリーシリーズのフルを受けた後は、首の後ろの付け根に打撲のような鈍痛が出た。
痛いんですけど…。こんなので練習を続けても大丈夫?
悪化しない?
アシュタンガヨガでは、とにかく続けることが大事だと言われているのが私の印象。
ヨガの連続講座で出会ったグレゴール・メーレさん著の「現代人のためのヨーガ・スートラ」。(難解で、まだ最後まで読めてないけど)
私はこの本とアシュタンガヨガに出会うために、特別気が進む訳でもないその講座を受けたのではないかと、終わってみた今思う。
その中には「タパス(苦行)」の重要性が書いてある。
そのタパスとは、何か辛い修行などを行う苦行という意味ではなく、ヨーガでは、苦難に出会っても実践を続ける能力のことをタパスと言うのである。と書いてある。
ということは、肘を痛めた、首を痛めた、太腿の裏の筋が痛いのだからとそれを休む口実にすることを考えるのではなく、それでも練習を続けるということに意味があるのではないだろうかと思った。
それが、「苦難に出会っても実践を続ける能力」ということになるのではないか。
(もちろん、重大な怪我の場合は別だけれども)
いろんなアーサナが出来るようになることよりも、「続ける」というこの一点が最重要項目なのではないかと。
ここで初めて、自分は体が硬くて良かったと思った。
硬いのには硬いなりの理由があったのだ。
もし私が、少しでも柔軟性に自信があったとしたら、きっと、次々とアーサナをクリアして行くことだけに意識が集中して行っていたと思う。
「続ける」ということには意識が向かなかった。
では、続けるというタパスを行うにはどうすれば良いか。
それは、一にも二にも先ずは怪我をしないこと!、それが第一だ。
それには無理をしない、体に無理をさせないことだ。
アーサナを完成させたいという欲や目的を達成することだけに価値、重きを置かないこと。
と思っていた時に、私の中で気付きが起こった。
これは、「人生を生きる」ということに通じるのではないかと。
生きることは毎日の積み重ねで継続だ。
意識的であろうと無意識であろうと、全ての人間、生き物は生きるということを毎日続けているのだ。
つまり、生きること=タパスと言える。
アシュタンガヨガでのタパスの実践を通して、私は人生を生きるということの実践をしているのだ。
地球上の数ある生命体の中でも特に人間は生きるということに無意識で無頓着だ。
食物連鎖のトップに常に君臨していて、他の生命体に捕食される心配もない。
毎日の命の保証がされていて、明日も今日と同じように当たり前に生きていると思っている。
だから、命が当たり前だと思っている。
そして、当たり前だと思うことを粗末にするのが人間だ。
だから、自分を粗末にする。肉体を粗末にする。命を粗末にする。
だから自殺ということも起こる。
病気も怪我も自殺も自分を粗末にした結果だ。
タパスの実践とは生きる訓練だ。
毎日を生きる。
どんな苦難があっても生きる。
(苦難があるのが人生で学びであるという考え方は好きではないけど)
その訓練。
私はアシュタンガヨガを通して生きるということの訓練をしている。