愛知県岡崎市在住:シンガーソングランナーの杉浦貴之さんからこんなメールが配信されて来ました。(24時間テレビでマラソンの模様が紹介された方です)
【以下杉浦貴之命はやわじゃないより】
さて、突然ですが、
今年の12月、ホノルルマラソンに参加しませんか?
日本全国のがん患者さん、がん経験者、ご家族、サポーターを集めてチームを作り、ホノルルマラソンツアーをやっちゃいます。
題して、
「命はやわじゃない!」がんサバイバーホノルルマラソンツアー
まず、チームを結成します。チームには、がんサバイバー(患者さん、経験者)、ご家族、サポーターに入ってもらいます。
ホノルルマラソンツアーの参加希望者だけでなく、まだまだ参加を迷っている方、参加はできないけど日本から応援したい方にも入ってもらいたいです。
つまり、このプロジェクトを応援していただける方なら、どなたでも参加可能です。
チームではメーリングリストを作り、メンバーで思いや情報を共有し、12月の本番まで心を一つにしていきます。
今後どのように参加メンバーの方々と関わっていくかは、これから実行委員で決めていきます。どんなイベントを企画するか、どのようにメンバーの皆さんをフォローしていくかなど・・・。
2月1日より、チーム参加の正式申込を開始する予定です。心がピンと感じた方は、参加表明してくださいね~。
また、この人に知らせてあげたい!という人がいましたら、どんどん紹介してくださいね。
なお、まだこのチームの名前が決まっていません。このメルマガで募集したと思います。何かいいチーム名はありませんか~?
もし、これはという名前が思い浮かんだという方はメールで教えてください~!また、このチームへのアドバイスなどありましたら、ぜひぜひお願い致します。
今日は、まず言いだしっぺのぼくの想いを!
<主宰者・杉浦貴之の想い>
1999年、ぼくは進行性の腎臓がんにかかり、両親には「余命半年、2年後に生きている可能性は0%」と宣告されました。
あれから10年が経過し、今ぼくは、がんになる前よりもはるかに元気です。
そんなぼくが元気になる大きなきっかけをくれたのが、2005年12月の2度目の参加となったホノルルマラソン。
10年前、左の腎臓の摘出手術を受ける。その後の抗がん剤治療の辛さは想像を絶するものでした。
嘔吐、めまい、発熱、ひどいだるさ、脱毛・・・生きる気力を失いかけ、「死んだほうがマシ」と何度思ったことか。黒雲が立ち込め、ぼくの未来は暗闇に包まれました。
そんな中、ぼくは光を見出しました。光が射さないなら、自分のまぶたで創り出す。それは夢という光。ぼくは病院のベッドで、「大学時代に走ったホノルルマラソンにもう一度出たい!」という夢を抱いたのです。
ただ夢を見るのではなく、ゴールシーンを思い浮かべては実際に涙するほどありありと描き、辛い治療を耐え抜きました。
退院し、5度の腸閉塞で倒れても、その夢だけはあきらめずにずっと持ち続けました。
そして6年後の2005年、その夢が叶います。そのとき、周囲の人々に言われたのが、「何でそんなにフルマラソンを走れるほどに元気になったの?」という言葉。ぼくはとっさに答えていました。
「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になりました!」
「走る」ことを決意したとき、実際ぼくは全く元気ではありませんでした。本番3ヶ月前は、1キロ走っては心臓が痛くなり、その場に倒れこみました。
それでも、ゴールの先にいる元気な自分に「必ず行くから!」と約束をし、諦めず、少しずつ距離を積み重ねていきました。
元気になっていない体、言わば見切り発車も同然。そんな体でも、走り始めたことでぼくはどんどん元気になっていきました。
結果、42.195キロの距離を一歩も歩かず、5時間28分で完走。ゴールには本当に見違えるほど元気になった自分がいました。
そのとき、こんな思いが湧いてきました。
「自分の力を制限していたのは自分だった。できないと決めつけていたのも自分だった」
「自分の想いに、自分の描いた未来に、命は、細胞は必ず応えてくれる」
「己の中に『想像を超えた可能性』がある」
その後、想像もしていなかったことが起こりました。
元気になったのは自分だけだと思っていましたが、
「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になりました!」の言葉に、たくさんの人が走り始めてくれました。
青森の中山幸油利(なかやまさゆり)さんは、2003年9月、乳がん手術。ぼくに触発されて、2006年、故郷青森で初マラソンに参加。5キロの部に出場し、感動、大号泣のゴール。
そしてその後、10キロ、ハーフ、フルマラソンと距離を伸ばしていき、今では完全にランナーと化してしまいました。昨年はなんと100キロのウルトラマラソンを見事に完走。彼女は言いました。
「がんになる前より100倍元気になった!」
東京の野見山悟医師は、5年前、前立腺がんの再発で5年生存率を宣告されていました。そのタイムリミットの年、2008年12月、見事にホノルルマラソンを完走。帰国後、なんと腫瘍マーカーの値が下がっていました。彼は言いました。
「細胞って、いい仕事するね~」
熊本の射場恵美子さんは、3年前、末期がん宣告を受け、ホスピス行きを勧められ、遺書まで書きました。
宮崎でぼくと出会い、彼女も走り始めました。そして、2007年3月、5キロのマラソンを完走。今、ますます元気にされています。彼女は言いました。
「頭でばかり考えていてはダメ。行動しなくては何も変わらない」
こうして、走り始めて元気になった人はまだまだたくさんいます。
きっと彼らの周りでも、その元気が波のように広がっているでしょう。今回のこのマラソンツアーで、もっと大きな波を起こるでしょう。
がんに関してはマイナスな情報が多すぎます。テレビや映画でも亡くなられる方の話が多く、そこから大切なことも教えられますが、希望や勇気は与えられません。「がん=死」の思いこみはますます強くなります。
そんな中で、このマラソンツアーを一つの希望として捉えてもらえたら嬉しいです。今まさにがんの告知を受けた人に希望を届けたいです。
そしてがん患者さんにも誰かの希望となってもらいたい。希望が連鎖して輝き、奇跡も連鎖していきます。奇跡が世の中にいっぱい増えれば、それはやがて、奇跡でなくなります。
チームを作る理由が他にもあります。仲間の支えが本当に大きな力を生むからです。
☆★☆★☆★☆★☆★☆
とゆうわけで杉浦さんと言えば24時間テレビでマラソンの様子が紹介され 今では全国でトーク&ライヴを行っておられます。
この記事を呼んで
私、昔のように(陸上部だった)走りたい
そう思いました。
まずは思っただけですが
f^_^;
5メートルでも10メートルでもいい、元気出して走ってみようかな、
(最近は膝を曲げ伸ばしするときギシギシゆうのでヤバイかなぁ)
なんかやりたい
なんかに挑戦したいと頭の中でだけ考えています。
行動しなくては意味ないけどね、
【以下杉浦貴之命はやわじゃないより】
さて、突然ですが、
今年の12月、ホノルルマラソンに参加しませんか?
日本全国のがん患者さん、がん経験者、ご家族、サポーターを集めてチームを作り、ホノルルマラソンツアーをやっちゃいます。
題して、
「命はやわじゃない!」がんサバイバーホノルルマラソンツアー
まず、チームを結成します。チームには、がんサバイバー(患者さん、経験者)、ご家族、サポーターに入ってもらいます。
ホノルルマラソンツアーの参加希望者だけでなく、まだまだ参加を迷っている方、参加はできないけど日本から応援したい方にも入ってもらいたいです。
つまり、このプロジェクトを応援していただける方なら、どなたでも参加可能です。
チームではメーリングリストを作り、メンバーで思いや情報を共有し、12月の本番まで心を一つにしていきます。
今後どのように参加メンバーの方々と関わっていくかは、これから実行委員で決めていきます。どんなイベントを企画するか、どのようにメンバーの皆さんをフォローしていくかなど・・・。
2月1日より、チーム参加の正式申込を開始する予定です。心がピンと感じた方は、参加表明してくださいね~。
また、この人に知らせてあげたい!という人がいましたら、どんどん紹介してくださいね。
なお、まだこのチームの名前が決まっていません。このメルマガで募集したと思います。何かいいチーム名はありませんか~?
もし、これはという名前が思い浮かんだという方はメールで教えてください~!また、このチームへのアドバイスなどありましたら、ぜひぜひお願い致します。
今日は、まず言いだしっぺのぼくの想いを!
<主宰者・杉浦貴之の想い>
1999年、ぼくは進行性の腎臓がんにかかり、両親には「余命半年、2年後に生きている可能性は0%」と宣告されました。
あれから10年が経過し、今ぼくは、がんになる前よりもはるかに元気です。
そんなぼくが元気になる大きなきっかけをくれたのが、2005年12月の2度目の参加となったホノルルマラソン。
10年前、左の腎臓の摘出手術を受ける。その後の抗がん剤治療の辛さは想像を絶するものでした。
嘔吐、めまい、発熱、ひどいだるさ、脱毛・・・生きる気力を失いかけ、「死んだほうがマシ」と何度思ったことか。黒雲が立ち込め、ぼくの未来は暗闇に包まれました。
そんな中、ぼくは光を見出しました。光が射さないなら、自分のまぶたで創り出す。それは夢という光。ぼくは病院のベッドで、「大学時代に走ったホノルルマラソンにもう一度出たい!」という夢を抱いたのです。
ただ夢を見るのではなく、ゴールシーンを思い浮かべては実際に涙するほどありありと描き、辛い治療を耐え抜きました。
退院し、5度の腸閉塞で倒れても、その夢だけはあきらめずにずっと持ち続けました。
そして6年後の2005年、その夢が叶います。そのとき、周囲の人々に言われたのが、「何でそんなにフルマラソンを走れるほどに元気になったの?」という言葉。ぼくはとっさに答えていました。
「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になりました!」
「走る」ことを決意したとき、実際ぼくは全く元気ではありませんでした。本番3ヶ月前は、1キロ走っては心臓が痛くなり、その場に倒れこみました。
それでも、ゴールの先にいる元気な自分に「必ず行くから!」と約束をし、諦めず、少しずつ距離を積み重ねていきました。
元気になっていない体、言わば見切り発車も同然。そんな体でも、走り始めたことでぼくはどんどん元気になっていきました。
結果、42.195キロの距離を一歩も歩かず、5時間28分で完走。ゴールには本当に見違えるほど元気になった自分がいました。
そのとき、こんな思いが湧いてきました。
「自分の力を制限していたのは自分だった。できないと決めつけていたのも自分だった」
「自分の想いに、自分の描いた未来に、命は、細胞は必ず応えてくれる」
「己の中に『想像を超えた可能性』がある」
その後、想像もしていなかったことが起こりました。
元気になったのは自分だけだと思っていましたが、
「走れるほどに元気になったのではなく、走ったから元気になりました!」の言葉に、たくさんの人が走り始めてくれました。
青森の中山幸油利(なかやまさゆり)さんは、2003年9月、乳がん手術。ぼくに触発されて、2006年、故郷青森で初マラソンに参加。5キロの部に出場し、感動、大号泣のゴール。
そしてその後、10キロ、ハーフ、フルマラソンと距離を伸ばしていき、今では完全にランナーと化してしまいました。昨年はなんと100キロのウルトラマラソンを見事に完走。彼女は言いました。
「がんになる前より100倍元気になった!」
東京の野見山悟医師は、5年前、前立腺がんの再発で5年生存率を宣告されていました。そのタイムリミットの年、2008年12月、見事にホノルルマラソンを完走。帰国後、なんと腫瘍マーカーの値が下がっていました。彼は言いました。
「細胞って、いい仕事するね~」
熊本の射場恵美子さんは、3年前、末期がん宣告を受け、ホスピス行きを勧められ、遺書まで書きました。
宮崎でぼくと出会い、彼女も走り始めました。そして、2007年3月、5キロのマラソンを完走。今、ますます元気にされています。彼女は言いました。
「頭でばかり考えていてはダメ。行動しなくては何も変わらない」
こうして、走り始めて元気になった人はまだまだたくさんいます。
きっと彼らの周りでも、その元気が波のように広がっているでしょう。今回のこのマラソンツアーで、もっと大きな波を起こるでしょう。
がんに関してはマイナスな情報が多すぎます。テレビや映画でも亡くなられる方の話が多く、そこから大切なことも教えられますが、希望や勇気は与えられません。「がん=死」の思いこみはますます強くなります。
そんな中で、このマラソンツアーを一つの希望として捉えてもらえたら嬉しいです。今まさにがんの告知を受けた人に希望を届けたいです。
そしてがん患者さんにも誰かの希望となってもらいたい。希望が連鎖して輝き、奇跡も連鎖していきます。奇跡が世の中にいっぱい増えれば、それはやがて、奇跡でなくなります。
チームを作る理由が他にもあります。仲間の支えが本当に大きな力を生むからです。
☆★☆★☆★☆★☆★☆
とゆうわけで杉浦さんと言えば24時間テレビでマラソンの様子が紹介され 今では全国でトーク&ライヴを行っておられます。
この記事を呼んで
私、昔のように(陸上部だった)走りたい
そう思いました。
まずは思っただけですが
f^_^;
5メートルでも10メートルでもいい、元気出して走ってみようかな、
(最近は膝を曲げ伸ばしするときギシギシゆうのでヤバイかなぁ)
なんかやりたい
なんかに挑戦したいと頭の中でだけ考えています。
行動しなくては意味ないけどね、