熊本の山鹿にある、彦岳。
昔、この頂上に姫龍神を祀る彦岳権現宮があり、
この山の2里四方は神領だったといわれている。
1808年に5年の歳月をかけ作られた楼門
鳳凰に龍にと、惚れ惚れするほどの美しい細工にしばし見惚れる。
現代にここまでのものを作れる職人はいるだろうか。繊細さには目を見張るものがある。
阿蘇神社の震災で崩壊し、2019年から修復開始の楼門も、
今年3月に完成の予定と聞いていたが、2023年12月の完成予定に変わった。
なんとも気が遠くなる大変な仕事である。
彦嶽宮の由緒としては、景行天皇の時代に
軍を率いて攻め入った天皇が、近くの震岳に立てこもり
頑強に抵抗し降伏しない賊徒に困り天神に祈った。
すると彦岳権現山の頂上から、霊感わいて白羽が飛び
震岳は山ごととても揺れ、賊徒は壊滅敗走して鎮定。
天皇は神に感謝して、下宮、中宮、上宮を造立した。
天皇関係ということで、祭神もそうそうたるメンバー
記紀では国生みをした、伊邪那岐、伊邪那美神
黄泉の国から戻った伊邪那岐の禊で生まれた、天照大御神に月夜見神
伊邪那美の死の原因になった、彦炎出見神などが祀られ
また、記紀上では記述のない隠れた覇王、
速玉男神(ニギハヤヒ)が祀られているのは、とても興味深い。
小椋一葉の”消された覇王”を一度読んでもらうと古代史が好きになるだろう。
この地域には、彦岳(権現山)と不動岩との首引き伝説というものがある
”
むかしむかし、不動岩とその西北にある彦岳権現は義兄弟でした。
蒲生の山に住んでいた母は、かねてから継子の彦岳権現には、
まずい大豆やそら豆ばかりを食べさせていました。
一方、実子の不動岩にはおいしい小豆ばかり与えて、大事に育てていました。
いよいよ相続遺産をさせるということになったとき、この両者を綱引きで力比べをさせて、
勝った方に相続権を与えることにしました。
不動岩と彦岳権現の中間にある震岳(ゆるぎだけ)の頂上に大綱をかけて、
綱引きの号令をかけました。すると、小豆ばかり食べて育った不動岩は、
最後のふんばりがきかずに、彦岳権現に敗れてしまいました。
その負けっぷりもたいしたもので、首が吹き飛んで一ツ目神社の上の丘に落ちるほどでした。
その傷口から流れ出た血によって、このあたり一帯の土が赤土になったと言われています。
綱引きのとき、両者の力で土が盛り上がってできた山が現在の震岳であり、
この山の頂上のふたつの凹地は綱引きの縄跡と言われています。”
継子が勝ったという結末は皮肉だが、子を甘やかして育てるとこうなる
という戒めも含んでいるのだろうか。
<変わった形で目を引く、不動岩(ふどうがん)>
平安時代、山伏たちがこの山中にこもり、不動明王を本尊として祀った。
当時たくさんの山伏たちがこの岩の周りに坊を建て、修行していたと伝えられている。
現在も不動岩の付け根には不動神社の拝殿があります
この右側の岩の上には登ることができる。岩の上はなんとも気分爽快で見晴らしも最高だった。
その時のルートは、東側の一本松公園近くの日岡山から蒲生山を歩き不動岩のピークを踏み
下へ降り、不動神社へお参りして林道歩きで周回した。10kほどを歩いた。
不動神社からも、急登であるが岩の上へ行くこともできる。
山鹿周辺の低山は、伝承が数多くあり
昔の人たちに大切にされてきた地域なのが良くわかる。
彦嶽宮の祭神の顔ぶれには面食らったが、それだけ格の高い宮というのが
この場所に来ると空気感で知ることになるだろう。
小さい境内の中にあふれる清々しさと、隅々まで清められ
宮司さんの心遣いがそこかしこに見える、とても気持ちが良い場所だ。
社ではなく、宮というのはそれだけ皇室とのゆかりが強いということだ。
山鹿の隠れたパワースポットを、またひとつ発見したようだ。
そして楽しみの一つでもある、御朱印をいただく。
季節で絵柄が変わるらしい御朱印が、とても素敵なのだ。
今の紅葉時期はこちら
5種類くらいある中から、猫のモチーフの御朱印を選んだ。
夏にはこのような絵柄だったようだ
映え映えである。
印刷かと思って尋ねると、なんと手作りだった。
息子さんが毎回新しい図案を考えられているとのこと。
山に登っている間に仕上がっていた。
これは季節ごとにもらいに行きたいと、歩きに来る楽しみができた。
彦岳上宮への登山コースは、土砂や崩落が多く急登で登りにくいが
普段山登りをしているかたならば、問題ないだろう。
車や徒歩で林道を登ることもできる。
頂上でお弁当を食べるのも良いだろう
彦嶽宮 🅟5.6台 🚻あり