原爆の父と言われたオッペンハイマーは、山本空外和尚を訪ね、弟子入りを懇願します。

オッペンハイマーの遺骨の一部かあるいは、。。。。。。

 

 山口県下関市●◎神社と縁ある祖父の口伝から検索備忘録

日本軍の原爆開発資料発見 京大、GHQの押収免れる(京都新聞)

『太平洋戦争中に旧日本海軍から原爆研究を委託された京都帝国大(現京都大)の荒勝文策研究室が、ウラン濃縮の遠心分離装置開発に取り組んでいたことを示すノート3冊や関連資料が24日までに、京大放射性同位元素総合センター(京都市左京区)で見つかった。京都帝大による原爆開発の全容は、終戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)が一切のデータや研究ノート類の提出を命じ、押収した資料は米国で機密指定されていたため、明らかになっていない。なぜ押収を免れたかは不明だが、秘められた日本の原爆開発と科学技術史を検証する上で、貴重な発見といえる。・・・<原爆とウラン濃縮>第2次大戦中に旧日本陸軍は理化学研究所の仁科芳雄研究室に、海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託。原爆の製造には原料のウラン鉱石から、ウラン235の濃度を90%以上に分離・濃縮する過程が必要と言われる。仁科研究室は「熱拡散法」で、荒勝研究室は「遠心分離法」で分離を試みようとしたとされる。戦局の悪化で、海外から十分な量のウラン鉱物確保が難しく、京大は終戦までに完成しなかったとの見方が通説になっている。』

*押収されなかったということは・・・

<仁科博士の研究ではすでに原爆は完成していたけれど、博士の考えで発表は厳禁されていた。

ところが理研にいた研究補助員の湯川秀樹(米国のスパイ)が米国に売り渡したと。本来は仁科博士と共にノーベル賞をもらえるはずだったのに湯川秀樹単独でもらうことになった理由もこのことにかかわっているとか。このあたりのことは私は詳しくないのでこれ以上のことはわかりませんがこれで考えると、広島と長崎に落とされた原爆は日本製ということになるようです。

 
日本の原爆(硫黄島)【硫黄島での起爆実験】</span>

 

さて、ウラン鉱石の発掘場所、及びその運搬経路、ウランの濃縮、起爆装置の開発~組立は榎本氏の書いた(現代「山椒太夫」の名前)からおぼろげながらでも理解できたであろう。その当時に於ける将来の原爆外交(世界覇権の獲得)に向けて、日本帝国は連合国側にこの原爆の威力を見せ付けなければならない。その為の第一歩である人類初めての起爆実験が硫黄島で行われたとある。

 

8月6日広島・8月9日長崎での地上起爆が決定している以上、米国側との終戦密約(8月15日日本放送協会からの天皇の終戦宣言)を履行しなければならない。

そこで“人類初の原子爆弾の起爆実験”がどうしても必要となる訳である。しかも“日米英仏の関係者だけ”に秘密裏に原子爆弾の威力を見学させなければいけなかった。1944年5月時点で大日本帝國参謀本部は“米英仏国側”に寝返った為に、ドイツ軍の作戦計画は全て連合軍側に筒抜けとなった。一人“ヒットラー総統”のみ大日本帝國参謀本部の裏切りを知らなかった。

「日本製原子爆弾は3発、製造された」訳で在る。世間で入手できる限りの情報からは「広島型(ウラン)・長崎型(プルトニュウム)原子爆弾」の構造は想像できないと云える。原子爆弾の構造に詳しいのは、当初「日本製原子爆弾の製造」は、満洲国に在る“陸軍燃料工廠と海軍燃料工廠”で製造を試行錯誤していたのだが?満洲国皇帝愛新覚羅溥儀が「日本製原子爆弾製造計画」を知るに至り、原子爆弾を非常に欲しがった為に、日本国内での純粋培養計画に変更した訳である。満洲国及び朝鮮総督府に於ける「ウラン鉱石調達」責任者は、満洲国新京満洲国治安部軍事顧問部 山東省特務機河野悦次郎少将(25期 昭和16年10月15日~昭和17年12月10日)弟・河野清吾軍医大佐と弟・河野又四郎大佐(31)で在った。勿論皆さんあの「有末精三」を忘れては居ないと思いますがね。次の問題点は「資金調達」問題である。日本国内での大蔵省予算を採決したのは現総理大臣福田康夫の父親「福田赳夫」である。満洲国内での資金調達の問題は「満洲中央銀行」の債券から充当した。ここで、登場したのが「西山勉」である。満洲中央銀行の略歴と西山勉の履歴を以下に記す。

夜間の重装備での20~30キロ踏破も男女の別なく行う。ここで、理由は分らないが「硫黄島」に行く授業がある。余りの激戦地だったから、硫黄島に着くと、「霊」が見えると言う「心霊体験者」まで出てくる。そんな“大激戦地、硫黄島”を舞台にしたアメリカ映画2編が、2007年に劇場公開された。タイトルは「父親たちの星条旗(アメリカ側からの視点)・硫黄島からの手紙(日本)からの視点)」クリント・イーストウッド監督。何故この年に公開されたのか?である。しかも監督が「クリント・イーストウッド」である。制作費は何所が出したのか?日本の文化庁が出したとしか考えられない。其処までする理由は{2001年9・11テロ}が日本の犯行だからである。そして、それは「広島・長崎での日本製原子爆弾完成と地上起爆」に関係している。1945年8月6日8時06分ごろ、広島市の広島城付近で、日本製造の原子爆弾が地上で起爆された時、呉の海軍

兵学校で授業を受けていた75期生徒を前にして、教官が発した言葉は「廣島に投下された爆弾は新型である。あの程度のものは、日本でもすでに作られている。硫黄島で実験済みである(3月17日守備隊全滅)。心配することはない、訓練にはげむこと・・・・。」爆発直後の様子<ピカッ、ドン、ガタガタ、振動する窓ガラス。一瞬、火薬庫の爆発だ、安全地帯に逃げなくては。海軍兵学校西生徒館の湯飲み場から、カッターをつり上げているダビットの海岸線に向って飛び出す。江田島の古鷹山の裏側にある火薬庫の大爆発か。北の空を見る、それらしい形跡はない。西の方に目を向ける、広島市の中空あたりに浮かぶキノコ状の雲が私の目に焼きついた。私のみたものは、米軍機が撮影の写真より時間が遅いからこれよりかなり上部に、まったくキノコの形をしていた。それからは、空襲警報が発令されると、防毒マスクのほかに風呂敷大の白布を持って防空壕に避難することになった。>その一日の行動は、<1945年8月6日。朝から好天気。平面測量実習で海岸線を実測中。夏の日差しにあてられたので、お茶を湯飲み場で飲んでいた。まさにそのとき。当日の課業が終り、夕方、指導の教官が私たち分隊全員を集め訓示があった。つまり、未曾有の爆発にも帝國海軍兵学校は市民の救助に当たらなかった訳である。しかも、別の教官は当日に「原子爆弾」だと発言している。ここで問題となるのは、「廣島に投下された爆弾は新型である。硫黄島で実験済みである」この教官の名前は書かれていない。「日本製原子爆弾の製造と使用」は証明できるが、どうしても不可欠なのが、“広島・長崎で地上起爆”させる前に、何所かで一度“起爆”させて原子爆弾に性能を確かめる必要がある点である。その“起爆地(実験場所)”そこが「硫黄島」とは考えつかなかった。映画「父親たちの星条旗・硫黄島からの手紙」が公開されなければ理解できなかった。

「硫黄島」が日本製原子爆弾の実験地とはね?考えたもんだ。さすが「謀略戦の天才=大日本帝國参謀本部」だね。ここなら、すべての条件が満たされている。

第一点、日本国民の目に触れない。

第二点、アメリカ政府に対して、日本製原子爆弾の性能を公開でき、1945年9月3日戦艦ミズーリー号上でポツダム宣言調印式典が出来る。

第三に、日本本土に残った帝国軍人(召集兵を指す)精鋭部隊が、9月4日以降に日本本土に連合国軍が進駐した場合に、連合国軍に対して「抵抗運動(レジステンス)」をしかねない。 その対策として、「硫黄島」で守備隊全員に“玉砕命令”をだし全員生還させない。その為には、日本軍最高司令官として「栗林忠道陸軍大将」が適任者だった。アメリカ軍に分りやすい“連絡要員”だからである。栗林忠道の履歴は、騎兵隊であり、その多くは「陸軍省兵務局馬政課長」いわゆる「馬まわり役」である。そして、この「馬」と日本製原子爆弾製造会社「森永食糧工業(森永乳業)」と接点は{岩手県盛岡市青山町に在った「陸軍騎兵第三旅団23・24連隊(現在の森永乳業盛岡工場の地)」が置かれると秩父宮雍仁親王が入隊したと言う歴史から解る。 盛岡市の旧帝国陸軍関係用地は、ほとんどが森永製菓に払い下げられている事実でも理解できる。 陸軍騎兵(軍用跡地は森永製菓の土地)―栗林忠道―硫黄島この三角点の図式から、導かれる結論はタダ一つ「硫黄島で世界最初の原子爆弾実験が行われた」と言うおぞましき現実である。即ち<大日本帝国陸軍硫黄島守備隊最高司令官栗林忠道陸軍大将>は、守備隊全員の死亡を確認して後、直ちに“日本製原子爆弾の実験場整備”にかかったである。5月に“仁科芳雄”が完成させた原子爆弾を「硫黄島」で5月末から6月中旬にかけて“起爆”させ、その破壊力を確認した後。

8月6日広島・9日長崎において、自国民の市民(老若男女)を実験台として無差別大量殺戮し、人間に対する影響を追跡調査した。そこで得たものは<湯川秀樹のノーベル賞と佐藤栄作のノーベル平和賞>と言うのだから、おぞましい限りである。栗林忠道陸軍大将だけ玉砕していない。これが、帝国軍人の戦争指導要綱である。だから、現在「所沢防衛医科大学校」の生徒が、硫黄島に「ウランの半減期」を観察する為に「防衛医科大学校」の生徒は行くので有る。

勿論、事実は“生徒”には知らされていない。富士演習場での演習参加・硫黄島での残留放射能測定、これが「防衛省」の仕事である。 実は私の大叔父がこの硫黄島での激戦の中でアメリカの捕虜になって帰還したと言う事を聞いた。しかしながら、現在はもう亡くなっているので聞くことはできない。残念である。