バスガールの日 2月2日 

1920年のこの日、東京市街自動車の乗合バスに日本初の女性車掌(バスガール)がお目見えした。初任給35円という、当時としては高給の待遇が話題になった。

 

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ディアトロフ峠事件 2月2日

ディアトロフ峠事件(ディアトロフとうげじけん)とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。

 

 

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ディアトロフ峠事件の深層

ディアトロフ峠事件とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部でスノートレッキングをしていたウラル科学技術学校の生徒か卒業生だった男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件です。 事件は、ホラート・シャフイル山(Kholat Syakhl、Холат-Сяхыл、マンシ語で「死の山」の意)の東斜面で起こりました。 事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ。

ディアトロフ峠とよばれるようになりました。 当時の調査では、一行はマイナス30℃の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされました。 遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体は舌を失っていました。 さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射性物質が検出されました。


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 当時のソ連の捜査当局は 「抗いがたい自然の力」によって9人が死にいたったとし、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じました。

 ソ連を引き継いだロシア連邦の最高検察庁は2019年2月1日、雪崩や暴風など自然現象が原因との見解を示しました。 一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10kmのオトルテン山に設定されていました。

 そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度が極めて高いと推定されましたが、一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいませんでした。

 

 1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリに一行の乗った列車が到着しました。 彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80km北方にある最後の有人集落ヴィジャイに到着。 そして1月27日、いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発しました。

 

 しかし翌日、ユーリー・ユーディンが持病のリウマチの悪化から離脱、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものです。

 

 1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達し、本格的な登山準備に入る一方で、下山までに必要と思われる食料や物資を取り分け、余剰分は帰路に備えて残置しました。

 

 翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入りました。 適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようですが、悪天候と吹雪による視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れてオトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまいました。 彼らはやがて誤りに気づきましたが、1,5kmほどの森林地帯に入って風雪をしのぐのではなく、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにしました。 木々の中でのキャンプ設営は容易だが、難ルートを踏破しトレッキング第3級の条件を満たす斜面での設営に決めたともされています。

 

 たった1人の生存者であるユーリー・ユーディンは「ディアトロフは、すでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べています。

 

 一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフが速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっており、おそらく2月12日までには電報が送られてくるだろうと予想されていましたが、事前にディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日がすぎて連絡がなかったにも関わらず、こうした遠征では数日の遅れは付き物だったため誰もこのことにとくに反応しませんでした。 2月20日になってようやく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校はボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送りました。 そののち軍と警察も参加した救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなりました。

 

 2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で、ひどく損傷して放棄されたテントを発見しました。 テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンはこう述べています。 「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。 中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました。」

 

 調べによると、テントは内側から切り裂かれていました。 8つないし9つの靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1,5km北東)に向かって続いていましたが、500m進んだところで雪に覆われて見えなくなりました。 捜索隊は森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして焚き火の跡を発見した。木の枝が5mの高さまで折られていたことは、彼らのうちの1人が木の上に登って、何か(おそらくキャンプ)を探していたことを示すものでした。

 

 捜索隊はさらにヒマラヤスギとキャンプの間で、ディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの3人の遺体を発見しました。 遺体はそれぞれ木から300m、480m、630m離れた位置で別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していました。

 

 残り4人の遺体を探すのにはさらに2か月を要した。残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75m分け入った先にある渓谷の中で、4mの深さの雪の下から発見されました。 4人は他の遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちにゆずったらしいことを示していました。 ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていました。

 

 最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められました。 検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなく、5人全員の死因が低体温症であることが判明しました。 スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていたが、これが致命傷になったとは考えられませんでした。

 

 5月に発見された4人の遺体の検死は事情が違いました。 彼らのうち3人が致命傷を負っていたのです。 チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していました。 ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとしています。

 特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことでした。 当初、先住民のマンシ人が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れましたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定されました。

 

 気温が摂氏マイナス25℃から30℃ときわめて低く、嵐が吹き荒れていたにも関わらず、遺体は薄着でした。 彼らのうちの何人かは片方しか靴を履いておらず、同時にそのほかの者は靴を履いていなかったか靴下しか履いていませんでした。

 

 何人かの足は、先に亡くなった者の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端で巻かれていました。 低体温症による死亡のうち、20%から50%はいわゆる矛盾脱衣と関連があり、これは通常、人が失見当識状態や混乱状態、好戦的な状態に陥るような中程度から重度の低体温症のときに起こります。 おそらくこれが彼らが服を脱いだ理由であり、服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まったでしょう。

 

 事件のあった夜、事件の発生地点から南に50km離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告しています。 同様の「光球」は、1959年2月から3月にかけて、イヴデリとその隣接する地域で、それぞれ無関係の目撃者(気象・軍関係者を含む)によって目撃されています。

 

 これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフ(Евгений Буянов)によって証明されています。

 

 テント内に残されたカメラのフィルムが現像され、彼らの姿を映したものが多数でしたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものでした。 テントの周囲に熊の足跡はなく、テントは彼らのナイフで内側から引き裂かれています。 

ウラル山脈中部は昔から旧ソ連の軍事兵器実験場でした。

 

 1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者、レフ・イヴァノフ(Лев Иванов)は1990年の彼の著書]によれば、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することがでずに、地域の高級官僚から死因審問を中止して捜査チームが見た「飛行する光球」に関する資料を機密にするよう直接指示を受けたといいます。 

 

 ソ連軍は謎の死を遂げた9人の情報を隠ぺいしたのか。 答えは、それが軍の機密実験だったからです。 旧ソ連でも「クルチャトフ研究所」などで「プラズマ兵器」の開発が行われていました。

 旧ソ連の崩壊後、バンクーバーで行われた米ロ首脳会議でエリツィン大統領はプラズマ兵器の技術協力をアメリカに申し出たことを、ロシアの『イズベスチヤ』紙(1993年4月2日付)が報道しています。


 このことから「ディアトロフ峠事件」で死亡した9人は、旧ソ連時代のプラズマ兵器の実験で発生したプラズマ火球だったと考えられます。 テントで固まっていた9人の血液に含まれる鉄分と衣服が接する静電気に引き寄せられたプラズマが透過してテントに進入し、テント内の一部を焼いて何人かの足を火傷させたため彼らはパニックになったのでしょう。 パニックになりながらもナイフでテントを切り裂いて外に逃げ出しましたが、プラズマは1人を直撃し顔面の肉と両眼と舌を蒸発させ即死させました。 プラズマは放射線を発生させるため衣服の一部に放射能を残します。 さらにプラズマは空中を浮遊しながら、逃げる3人に引き付けられていきました。 崖に追いつめられた3人は次々と転がり落ち、岩に直撃し死亡したのです。

 

 

 

 

 

 

 

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