おとうさん、げんきですか?

          

 

幼少のみぎり、本を読んでもらうことが何よりも好きだった私は、文字を書けるようになったのも弟より数年早かったとかつて母親が話していました。

そうなると、生まれて初めて書いたお手紙というのもとても早く、2歳ごろだったと思います。

そのころ、父は、遠洋漁業の船乗りで、年がら年中家にいないのが当たり前の人でした。南洋航海で南太平洋周りの叔父たちと違い、北洋船で鮭を追っていた父は、叔父たちに比べれば「近場」といえるかもしれませんが、それでも「近海漁業」と呼ばれる人たちと比べれば長い操業だったとおぼろげに記憶しています。

 

北洋船の多くは、北海道船籍の船が多く、給油や食糧の積み込みで北海道に寄港するたびに、こちらからも何某かの食べ物や手紙を積み込んでもらっていたようでした。

もちろん、20代だった母は、それらを理由に、北海道に呼ばれ父とのつかの間の逢瀬を楽しんでいたようです。

 

私は、両親が結婚して4年目にようやく生まれたということもあり、「息子が何より尊い」漁師家庭においては、「はずれ」だったにもかかわらず、かわいがってもらいました。でも周囲の漁師を営む家庭に生まれた男の子たちの思い出の中に「北海道」や「千葉」への旅行が必ずと言っていいほど含まれるのに、私の記憶には、残念ながら北海道旅行も千葉旅行もありません。

その代わり、定期的に書かされた「お手紙」の記憶だけは、ひどく心に残っているのです。

 

「おとうさん、おげんきですか?こちらは、みんな、げんきです。

おしごとがんばってね」

 

母が私の隣で、やいのやいのというもので、結局、すこぶる不機嫌になりながら、母の言うとおりに書くのですが、しまいには、テレビを見ながら書いては、頭を突かれるという忌まわしい不幸に見舞われ、泣き泣き手紙を書くという仕事をしていたわけです。

 

今なら、間違いなくこれも「虐待だぞ?」と言いたいくらいですが、昭和のしかも1970年代前半のころには、通用しません。

ちびまる子ちゃんの世界が「都会」の話にしか映らない私なのです。

いまどき、場合によっては、2歳なんて口の重い子ならまだおしゃべりもままならない子もたくさんいますよね?

あの頃、残念なことに、私は、母とため口で喋れるほどに口が回っていたばかりに、2歳なのにもかかわらず、「できてあたりまえ」のレッテルを貼られがちでした。

 

こうして、私の涙の結晶の「お手紙」は、母が丹精込めて作った父の好物の「味噌漬けの漬物」と一緒に箱に詰められ、北海道まで運ばれていくのでした。

 

「何回北海道に行ったことか、知れないわよね~」

と、後年、母は、楽しげに言ったものですが、私が幼すぎたばかりではなく、私の記憶を精査してみたところでも、私は、一度も北海道に行ったことはありません。

 

だがしかし、私に遅れること4年半にして生まれた弟は、なぜかなぜか北海道旅行の記憶があるというのです!!!

 

なぜ?

 

「あ~、そういえば、姉は、あの時行ってなかったよね?なんでだ?」

 

・・・・・・そう。これが漁師の家の女子というものです。