喪失感との付き合い方

 

           

 

 

もうそんなになるんだね。

時間の経過は、残酷だ。

 

 

 

1992年4月25日は、あたしが結婚する前の年だ。

 

 

 

第一報は、翌日の朝のニュースだった。

 

その日あたしは、仕事を休んだ。

 

東京行の新幹線に飛び乗って、

 

どこに行けばいいのかわからないのに、

 

とりあえず、渋谷に行けばいいと、なぜかそう思った。

 

 

 

案の定、渋谷駅は、尾崎の訃報を受けごった返し、

 

前の人の背中しか見えないような状態で、

 

どこに行けばいいのかわからないのに、

 

ただ、前の人の背中を追って流れのままに彷徨っていた。

 

本当に、行き先がわからないのに、よくもまあ、

 

渋谷だと検討をつけたものだ。

 

前を歩く人に目的の場所があって、

 

例えば会社に入っていったら、その時点であたしは、

 

糸の切れた凧のように、本当に、漂うばかりなのに。

 

 

 

幸い、前を歩く人がそのまた前を歩く人の背中を追って、

 

あるいは、後ろから来る人に押され、

 

流れを変えずに歩くしかなかった。

 

まあ、「後ろから来る人」というのは、

 

この場合は「あたし」なんだけど。

 

あたしだけじゃなく、

 

あたしの後ろからも人の波があとからあとから

 

押し寄せて、数キロにわたって、人の渋滞ができていた。

 

渋谷は、いつもこうなのかな・・・・とは、

 

一ミリも思っていなかった。

 

あたしの予測は、絶対当たっている。

 

みんな何も言わないけど、この人波は、きっと

 

尾崎豊の影を追って全国からやってきた人並なのだ。

 

改札を抜けて、外に出て、一つの渋滞は、いくつかの分岐を迎えた。

 

どこに行こう・・・・

 

誰についていこう。

 

一瞬、ためらったけれど、

 

スクランブル交差点を上から見下ろしたかったから、

 

歩道橋に続く人波の渋滞に、少しだけ間隔をあけて、

 

階段を上った。

 

平らな道に出るまで緊張した。

 

朝10時に東京駅に着いたのに、

 

日が傾きかけて夕方になるところだった。

 

スクランブル交差点を見ながら泣いている人がたくさんいた。

 

歩道橋の上でいきなり歌い出す人もいた。

 

ここに来たからどうなるというものでもないことは、

 

重々わかっているはずなのに、

 

お線香をあげるわけでもなく、

 

献花するわけでもなく、

 

 

ただ、

 

スクランブル交差点が見たかった。

 

 

 

日がすっかり落ちても、人波は途切れず、さらに増えていた。

 

東京には、いつも、こんなに人がいるのかな…

 

それとも昨日の今日だから、特に人が多いのかな・…

 

日が落ちたのに、街の明るさは、

 

むしろ夜のほうが白く輝いているように見えた。

 

夜になると歩道橋の上は、さらににぎやかになって

 

ギターを片手にいきなり歌い出す人が、

 

あっちの端にもこっちの端にも現れた。

 

だけど残念ながら、なぜかみんな

 

顔がいまいちで、歌もいまいちだったから、

 

あたしは、その輪の中には一瞥もくれずただ下を向いていた。

 

別に、アトオイなど考えていたわけではない。

 

ただ、

 

ただ、

 

スクランブル交差点を歩く人の波を

 

飽きもせずずっと眺めていた。

 

それからまた、東京駅に戻って、

 

新幹線に乗って家に帰った。

 

翌日、職場に行ったら、

 

当時すでに付き合っていた息子たちのオヤジが

 

「気が済んだの?」

 

と声をかけてきた。

 

うんともすんとも応えず、無視した。

 

あの頃、あたしの気持ちをうまく形容して、

 

相手が共感できる言葉は、まだ生まれてなかったから、

 

どんなに喪失感を感じていても、

 

それを誰かに話しても理解されない。

 

それならいっそ潔く黙っていたほうがいい。

 

そう判断したからだ。

 

息子たちのオヤジは、もともと寡黙で、

 

誰かの意味不明の行動に深追いするほど

 

人に興味がないから、あたしが返事をしなくても

 

それ以上、問いかけてくるような普通の反応は持ち合わせていない。

 

たとえば今、息子たちのオヤジが生きていて、

 

あの頃、まだ生まれていなかった、だけど今ならある画期的な言葉、

 

「推し」

 

というものを使って

 

「例えば自分の一番の「推し」が突然、この世から消えたら

 

今立っている地面が突然消えてしまったような、不安定な気分にならない?」

 

と、尋ねても

 

おそらく彼には、理解できずにキョトンとしただろう。

 

いや、むしろ、

 

「なにそれ?」

 

と眉間にしわを寄せ、

 

理解しようとすることさえ拒否られたかもしれない。

 

根本が無神経で興味関心のない事柄について、

 

あっさりシャットアウトする人なんだ。

 

だからそういう人との付き合いは、こちらも、壁に向かって話す様に

 

話しても共感を求めないか、

 

逆に全く話さないかの2択になる。

 

 

 

その後もしばらく、尾崎の死は、引きずった。

 

 

 

だけど、いつの間にか、日常の中で色が薄まっていった。

 

色は薄くなっても、いつもそこにある。

 

それが「身内の死」というものだと、歳を重ねるごとに

 

理解できるようになった。

 

喪失感との付き合い方は、

 

「ときぐすり」しか効果がないと言われるけれど

 

どんなに時がたっても、乗り越えられない喪失感もある。

 

そういう時は、仕方がない。

 

喪失しなかったことにして、心の中で対話し並走すればいい。

 

自分をだましながら生きていくのも悪くない。

 

苦しみが和らぐならそれでいい。

 

自分がいいなら、一番なんだよ。

 

大切なのは、いつだって自分なんだから。

 

尾崎豊様、いつか天国であなたの歌をまた聴きたいです。

 

またお会いできる日を楽しみに、今日も頑張って生きてみます。