僕にはずっと気がかりになっていることがあります。

もう十年近くも前のことですが、母が病気ですでに死の床にあるとき、僕は少々無理をしながら、ほぼ毎週末約400kmをとばしてお見舞いに行っていた。そして戻ろうと、「また来るから」と言うと、母はいつも「ありがとう気をつけて」と言ってくれた。
そんなある日母は、歯が抜けたから、屋根の上に放り捨ててくれと言った。僕の田舎では下の歯が抜けたときは屋根へ、上の歯が抜けたときは地面へ、「ネズミの歯~より早よ生えれ」と言いながら放り捨てると言う習慣があり、迷信深い母はそれを言ったのだ。
その時ぼくは長時間かけて帰ろうとする時だったし、何より永久歯に対して再生を願うまじないなど全く無意味と思ったので、「嫌だよ馬鹿馬鹿しい」と言ってしまった。

あのとき、どうして「分かった、そうしとく。」と言ってやらなかったのだろう。本当に実行するかどうか別にして承知したふりだけでもすれば良かった。

今だに引っかかっていて、いずれあの世とやらで母と再会したとき、改めてそのことを謝ったら母は許してくれるだろうか。
向田邦子の作品で「カワウソ」という短編小説がある。
ずっと以前に、NHKで杉浦直樹主演でテレビドラマ化されたのを見て印象に残った。

あらすじはこうだ。

旦那さんが脳卒中で不自由になって家にいるのだが、奥さんはそんなことお構いなしにそのまま、むしろより活発に着飾って出歩き、変わらぬ生活をしている。旦那さんはそれが気になって落ち着かない。ある日旦那さんは、奥さんが帰宅する頃に、ついに包丁を握りしめる。

この先がどうなるかは、詳細をご存じない形に対するマナーとして明かさないことにします。

しんどくてしんどくて、

生きる勇気も、死ぬ勇気も出ません。

ほんとに情けない。