浮かんでは消える言葉は再び戻ってくることはなく、


思い出そうとするほど、それにしがみついて離れられなくなるだけ。


だから、口に出す。川の流れ水を掬う。


その間に後から流れてきた清水は、もうずっと川下かもしれない。


体験もまた同じことだけれど。



掃除、掃除。掃除することによって充実した一日を感じる人は多いかもしれないけれど、うちはそんなもんじゃない。


減らしても、減らしても、家の物質は常に飽和状態。ごさごさと大量のプリント類を捨てた袋のまわりを歩きまわって、気がついたら空は薄暗い。


埃すらかぶっている勉強机の一番下の引き出しを覗くとそこはやっぱりプリントの束があった。


ため息をついて手にとれるだけとってゴミ袋にいれる。こうなったら流れ作業。頭のいらないデータがアンインストールされていくような感覚が気持ちよいとさえ思う。


勉強は嫌いだった。昔から。プリントが大量にあるのも、自分にとっては精神的な重みに直結していた。


紙の重さではなく、溜まっていくたびに鉛を呑んだようだった。


何故こんなに嫌いなのかはわからなかった。そのくらいなら、やって捨てればいいのに。


そう思うほど、瞼が重くなって気付いたら朝だった。


プリントの間から単語帳がでてきた。やる気があるのは買うときだけ。やり通したことなどない。


と思っていた。涙がでてきた。自分はいつ熱を捨てたのだろうか。自分はいつ欲を捨てたのだろう(または安楽の地に走ってしまったのだろうか)自分はいつ、「自分」を捨てたのだろうか。


汚い字でoneと鉛筆書きしている。めくると「1」と書いていた。目を瞠った。


two,three,fourと続く。まだ覚えていないような綴り方。eat、love…食べる、愛す…


1ページ1ページ黒ずんでいた。使ったのだろうと思った。


私は「1」や「食べる」のために単語帳を使っていたのだった。なんでもないことかもしれないのに、泣けた。


現在の私はここにあった。この単語帳にあった。とても反省した。おそらく一生で一番。


いまここに繋がっている。自分の小さな歴史が、忘れていた部分が戻ってきた気がした。



いまの自分はこの一掬いの水をみているかもしれないが、


流れた水、そしてこれからやってくる水があって、一本の川となる。


泥水だろうが清水だろうが、きっと。


いまここにつながっている。