息子がつかまえてきて飼うことになった、
キリギリス科のヤブキタ、「ヤブチ」。
とっても元気に鳴いて楽しませてくれていたけど、
今月も中旬になると鳴き声が小さくなった。
あまりにおとなしいから見てみると、
草につかまってじっとしていた。
死んでる・・
そう思って息子が帰宅後にそのことを話した。
すると、まるでそれを聞いていたかのように、
リーン、リーンと、
力を振り絞って何度か鳴いた。
「生きてた!よかったね!」
そして翌朝見た時には、
ヤブチはもう天国に行っていた。
7月14日だった。
息子がヤブチを連れて帰りたいと言った時、
私は正直反対だった。
こんなに跳ねまわる活発な虫を、
飼育ケースに入れて飼うなどかわいそうだと思った。
けれど虫が大好きな息子。
どうしても飼ってみたいと言うので了承した。
片方の触角が折れて半分になっていて、
残っている長い方を何度も口へ運び
手入れをしているような様子がかわいかった。
幼虫だったヤブチも、一週間しないうちに
羽が生えてきて成虫へ。
大きな綺麗な声?で鳴くようになった。
声が小さく変化してきたころからは特に、
いつも新鮮な草を入れておいてあげるよう
息子に言った。
草むらで生きるヤブキタは、
草のある環境が安心できるという。
せっかくうちに来てもらったのだから、
できる限り良い環境にしてやりたいと思った。
(いずみの息子のために来てもらうことになったから)
ヤブチが死ぬ三日前にも、
私が草を取ってきて、息子が入れ替えをした。
後にこのことが、私の救いとなった。
ヤブチが死んだ時、ありがとうねとだけ思えた。
つまり、「こうしてやればよかった」
という思いがなかったということ。
不自然な環境で生きるヤブチにとって
せめて飼育されるメリットは十分に与えてやろうと提案し、
購入した動物性の餌と野菜、水を十分に与えた。
ヤブチにとっては知ったこっちゃないだろうけど、
「ヤブチー」と声をかけた。
これってヤブチのためじゃないんだな。
ヤブチに意識を向けているという、
(放ったらかしにしていないというね。)
自分への確認だったと思う。
そして最後となった草の入れ替え。
ヤブチの亡き骸が、枯れ草の中じゃなかったこと。
青々とした草の中で、天国に行ってもらえたという、
後悔のない思い。
生きている間に
自分が納得できる向き合い方が出来たということで、
死に対する受け止め方を自分自身で良い方向に持っていける。
飼っていた犬が亡くなった時は違った。
子どもも小さく、年単位かかった産後の肥立ちで私はかろうじて生きている状態で
十分にしてやれなかったことがたくさんあった。
何年も経つのに、後悔と罪悪感が消えない。
しかも雌犬だったせいか、
子どもが赤ちゃんの時は本当に可愛がって
世話をしてくれて、実際いずみも助かっていたから感謝の気持ちがいっぱいあった。
感謝の気持ちがあることによって、
後悔が罪悪感に変わる気がしている。
突然飼うことになったヤブチだったけれど、
小さな命の終わりから考えることが
たくさんあった。
(そういう機会が重なったこともあって。)
なぜなら、現実的な事の大小は違っても、
残って生きている自分の気持ちとしては
人以外の生き物も
人間の場合と同じだろうと思ったから。
相手が生きている間に、
自分が納得出来る向き合い方をすることによって
死に対する受け止めかたを変えることができる。
ここ1か月で、いずみがみつけたこと。