阪神・淡路大震災から24年 | 佐藤健くんとマイライフ

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佐藤健くんだらけです☆

おはようございます真顔

本日は健さんネタではありません。

阪神・淡路大震災のみ。






午前5時46分

たった数十秒で世界が一変した瞬間でした。


1995年1月17日。

本日は震災の起きた瞬間を書きます。



今日も寒いです。あの日も寒かった。

でも、震えは確実に寒さではなく怖さだった。



あまりにも経験した事のない揺れと長さ(すご〜く長く感じた)怖くていい年して母親の布団に潜り込んだ。

余震が来る中、玄関を叩く音と声。

父親が見に出ようとして階下に降りると「なんや?!これ?!」の声。

居間は倒れた食器棚から散乱した割れた食器で溢れていてスリッパがないと歩けない。

当時飼っていた柴犬のさすけも震えてチビッて動けない。

玄関を叩く音は隣の美容院で働いてる女性がたまたま一人で泊まっていてあまりの揺れに怖くなってうちに来たらしい。

しかし、彼女を家に入れれる状態ではとてもない我が家に(足の文場もないほどの散乱ぷり)彼女も遠慮して戻っていった。

真っ暗で何も見えなくて、ただただ怖かった。

日が昇って改めて周りの状況が見えてきた。



4、50cmの段差のできた地割れ。

薄暗い道路を大声で喚きながら走り回る人々。

まだ夜明け前だったため、うちの近所は幸いにして家事はなかった。

明るくなったので犬を散歩に連れて行かないと用が足せないヤツだったので連れて出ながら近所を探る。

1階部分がぺちゃんこになった家、助けを呼ぶ声、喚く、泣く人々。

ガス漏れのガス臭。

傾いた電柱やビル。

余震で落ちてくるガラスやコンクリ破片。

まるで戦後のよう…


ヤバイ…これはヤバイ…

そうなってから周りの惨状に気付いた。


3連休明けで出勤の予定だったので駅まで歩いて行ったが、改札は閉まり、駅員室もカーテンをして誰もいない。


後で知ったのですが、高架が数キロに渡って落ちていたのでとても電車なんて走れない。

復旧までに8ヶ月かかった。


電話も勿論通じない。

当時は携帯も持ってない。

父親だけ仕事上持っていたが勿論通じない。

状況がわからない。


ただただそれだけだった。




そんな発生当初でした。


24年。

そんなに経ったのですね。

すっかり普段は忘れて防災もままならない。

去年、大きな地震があって台風があってまた災害意識が高まっています。

そんな時にもう一度ちゃんと防災しなきゃな。


思い出すと記憶は鮮明で、当時の映像を見たり、揺れを再現されると涙が出るのに、普段は忘れている。



あの時に何も命令なしでは動けなかった自衛隊の人々。

動けなかった色んな公的な人々。

そんな人が緊急の時に現場の判断で活動できるように変わった法律や規則。

うちの会社でも電車も通ってない、家も傾いてる、片付けもしないと暮らせない、電気屋の実家では客が来るので手伝うという現状なのに『有休扱いになるかも…』とか言われて震災の週には出社させられたりしたけど、それも今はもう会社の規則が変わってなくなった。

小さなことから大きなことまで、人々の意識が変わった震災でした。

この起こった悲劇を次に起こる時に活かして被害を最小限にしてほしい。

その後に更なる悲劇の東日本大震災が起こってしまったけど、あれもまた次に活かして行かなければならない。



風化させないように、経験した私達が次の世代に受け継いで行かなければならない。

うちでも子供に震災当時の話はよくします。

神戸にある『人と未来の防災センター』にも何度も行って沢山の資料を見ていました。

しっかりと教訓として活かさなければ。


話せばどんどん他にも出てくるけど、やめておきます。





今後南海トラフ地震が来るかもしれないし…

考えると怖いけど、考えないとな。


今日はそんな日です。