私が39歳の時に

父親のガンが分かった。

中咽頭がんでステージ2と言われたらしい。


まずは抗がん剤と放射線治療を選択したのだが

コロナ禍とはいえ

病院に呼ばれることもあるので

実家の近くの総合病院ではなく

(近くといっても車で40分かかる)

私の家の近くの総合病院に入院してもらった。

(私の家から15分くらい)



母親は車の免許を返納してしまっていたので

見舞いに行くことはなかった。

私は荷物受け渡しの時に

数分なら会えるよ、と言ったけど

それだけの為に

電車とバスをつかって1時間かけていくのは

嫌だ、と言っていた。

それが後に後悔することになっている。



私は用事がないと言われても

果物を差し入れたり、本を差し入れたり

洗濯物を預かって持っていったり

など、週に二回から3回、病院を訪問した。

たまに先生がいれば

病状の説明もしてくれたりする。



1回、嫌がる母親を

無理やり病院に連れて言ったのだが

父親がめちゃくちゃ喜んだ。

ほら、こんなに喜ぶのになんでめんどくさい、

なんていうんだろ…と不思議でしか無かった。



抗がん剤と放射線治療が終わり

一旦退院はした。

副作用がほとんど出なかった父親は

元気になって帰ってきたかのように見えた。



しかし1ヶ月後、声が枯れるのを指摘され

検査すると

ガンがまだ残っていたことが分かる。



2回目は手術しかなかった。

声帯に近い場所だったので

声帯ごとガンをとることになった。

声を失うのだ。

関西人でお喋りな父親はそれが嫌で

最初に放射線治療と抗がん剤にしたのだが

結局、声帯を取ることになってしまった。



15時間の手術の末

父親は声を失ってしまったのだった。



そこから

父親と会話するのに

スケッチブックを使ったり

連絡はLINEにするようになった。

機械に強い父親は

LINEをすぐ覚えてくれた。

妹とグループラインを作って

励ましのエールを送ったりもした。



しかし、本当はすぐにでも

手術したかったのに

家の除雪があるから待ってくれ、と

遅らせたばかりに

ガンが大きくなっていて

取り切れたかわからない、と言われてしまった。



総合病院にしばらく入院していたが

最終的には

緩和ケア病院に転院することになったのである。



10月にガンがわかり、

1月に手術し、

6月には緩和ケア病院に転院。



あまりのドタバタに

気持ちはついて行かなかった。