最近バレンタインなもんで、家の娘などがせっせとチョコを溶かしては固め、ラッピングをしている。
それを見ていて、宣教師の頃をふと思い出した。
あたしゃ、毎日のようにクッキーを焼いたり、していましたわさ。
求道者(レッスンを聞いてくれる人)のために、ボロボロになった英語のレシピから、ああでもないこうでもないと頭をひねりながら、作ったもんです。
グリーンビーン(新米宣教師)だったころに、その頃のゾーンリーダーから衝撃的な一言を言われたのを思い出した。
いわく「今日は○○さん(求道者の名前)がレッスンを聞いてくれるように、みんなでチョコレート断食をしたいです」
ゾーンの宣教師みんなは「いいねえ」「スバラシデス」「いい考えですねえ」と口々に賞賛の嵐。
え、チョコレート断食って何ぞや? ただチョコレートを食べないだけのこと? それだけのことにこんなに賞賛の嵐?
みなさん、チョコレート断食というのはねえ、そのまま、単に「ある決めた一定期間の間だけ、自分の好きなものとしてのチョコレートを断ち、その間お祈りで初めて、お祈りで閉める」というもの。
はっきりいいますが、あたしゃ、なんてバカなことを、と思っておりましたわさ。
でも周囲の宣教師たちはニコニコしてはいるものの、真剣そのもの。ああ、そう。まじめにやるんだね。こんなくだらんこと、とは心の中では思いながら、新米宣教師だったもんで、同じようにニコニコしながら「ああ、いいですねえ」と調子を合わせているわたくし。
で、アパートに戻って、宣教師四人で輪になってお祈り。
「天にまします愛するお父様。今日は○○さんのために宣教師がこうやって集まってお祈りできるので感謝いたします。これから○○さんのためにチョコレート断食をいたしますが、その間天の神様の守りがあり、私たちが無事にチョコレート断食できますようにお助けください。愛するイエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン」
正直抵抗があったのだが、これもまあ、「くだらない」ととるか、それとも「謙遜さ」ととるかの問題だろうと思い、ポジティヴになろうと決めていたので文句一ついわなかったのだけれど。
その頃の精神状態はというと、きっと大好きなチョコを○○さんのために断っているのだから、神様は祝福してくれる。きっときっと宣教師にも○○さんにもいいことがある、と考えていた。
だから教会員の家に行っても、求道者の家に行っても、チョコを出されると断るのである。
誤解されること、はなはだ多し。
「ああ、モルモンはチョコも食べないのね」といわれたり、「チョコにはカフェインがあるからね」といわれたり、「ダイエットしているの」などと良く突っ込まれた。
そこで「いや自分はチョコレート断食を」と内実をばらす宣教師もいれば「そうなんです。ダイエットしています」とごまかす宣教師もいた。ごまかす宣教師にはきっと「左手のしていることが右手にばれないように」という気持ちがあったのだろう。このヴァリエーションとして「炭酸ジュース断食」「ジャンクフード断食」「スニッカーズ断食」「M&M断食」なんてのもあった。こう書けばなんだかおかしいが、宣教師としてはマジ本気である。
ある同僚は毎日スニッカーズを食べないとイライラするという性格の持ち主だったが、ある求道者にバプテスマ・チャレンジをする際に「○○長老(私の名前)、わたしはね、彼のためにスニッカーズ断食するですよ」と宣言した。
同じアパートの宣教師も喜んで、心から応援する、と言った。そして長老の一人はジャニス・カップ・ペリーという教会員のミュージシャンのCDを私にくれた。理由は「今日から私もジャニス・キャップ・ペリー断食するですよ」という理由からだった。
これはよくある宣教師の美談である。
誰かのために、何かを我慢する。そうすることによって、双方に何らかの力の働きかけがある。という考え方だ。
スニッカーズ断食をした同僚は、毎日買っていたスニッカーズのお金100円ちょっとを貯金して、求道者がバプテスマを受けた際には何かプレゼントしようとしていた。これはこれで、まあ、いいことではある。
でもねえ、あたしゃ、今になっていいたいのだ。
あんたねえ、チョコレート断食って、何スか?
それを「イエス・キリストの御名」によってやるのは、どうなんスか?
スニッカーズ断食って、何スか?
スニッカーズもやめられないんなら、あんた神殿行く資格、ないんじゃないスか。習慣性の有るものは、知恵の言葉に違反すると思うぞ。
ジャニス・キャップ・ペリー断食って、お前なんだよ。
宣教師だったら二年間くらい音楽我慢しろよ。
チョコだって毎日バクバク食うんじゃねえよ。
宣教師の食事なんて、身体に悪いものばっかじゃねえかよ。
今から思うと、非常に幼稚なことだと思うのである。
チョコを我慢して、断食します。だから神様、祝福してください、とは、神様に対する侮辱だと思うのである。
本来断食する、というのは、その間に食べなかったお金を貧しい人に分け与えるとか、自分の霊的な成長のためにするものである。ただ単にチョコレートやジャンクフードや炭酸飲料を抜いても、それで霊的に成長するはずも、神様から求道者に溢れる恵みが与えられるかといえば、疑問である。そういうことがあったとしても、きっとそれは偶然か、気のせいだと思うのである。
今日もどこかの宣教師が、大義名分を持ちながら「チョコレート断食」をしているに違いない。
あたしゃ、あほらしくて、いやですね。そういうのって。