宗教というのは一体何であろうかと、よく考える。
救いを求めてくる人々に対して、何かの奉仕を受ける、もしくはこちらが与える、そういうものが宗教だと思っている、
宗教は心のよりどころだと、よく言われる。
ではモルモン教会の場合、どうなのだろうか。

みなさんご存知のように、モルモン教会を人生のよりどころにしている会員はいっぱいいる。
それはそれでいい。
問題はモルモンに入ってから、深く傷つき、逆に教会に恨みをもつようになった、ある種の人物がたくさんいる、もしくは言葉を換えて言えば、モルモン教会はそのような人々を毎年無尽蔵に生み出し続けている、という事実である。

これは否定しようがない。
彼等は「反モルモン」と呼ばれ、活発会員からは忌み嫌われ、「彼等と接触しないように」と通達される。
神殿に入るための面接でも、もし反モルモンの人の教義に親近感をいだいたりすれば、面接はその場で中止となる。
それほど反モルモンを教会は忌み嫌っている。
反モルモンでも教会を忌み嫌い、この世から撲滅させてやろうと、インターネットそのほかの活動を行っている人々も存在している。(ちなみに私にはそこまでの考えはない)

どうしてこのようになってしまうのか。どこで信仰の歯車が崩壊していくのか。
元は信仰、希望、愛を信じて教会に入ったのに、どうして最終的に、モルモン側から言えば「カス」のような連中を、反モルモン側から言えば「本当の信仰に目覚めた」人々を、どうして毎年生み出していくのか、そしてモルモン教会はなぜ新会員の定着率が悪いのか。そういうことを活発会員はもっと考えるべきである。教義の根本的な誤り、とまで私はいいたくないが、教会の運営方法などに問題がなかったのか、もっと真摯に対応して欲しいものである。

話は変わるが、知り合いのカトリックの人がいる。もう何年も会っていないが、彼女からこんな話を聞いた。
あるとき、とあるカトリック教会にうつ病の女性がやってきた。毎日「死にたい死にたい」とつぶやくほど、重症だったようだ。
彼女がカトリック教会にやってきたとき、その教会の神父は彼女と個人的に面接をし、丁寧に接して、どうしたら彼女の病気の回復の手助けが出来るか、会議を開いて祈ったらしい。
実際その女性は後日回復し、カトリック教会の熱心な信者になっている。
その信者とは、私の友人の彼女である。彼女はいつでもその話をし、あの神父にいつまでも感謝している、といっていた。

話は変わって私の話である。私がモルモンに改宗当時、同じぐらいの敏のうつ病の男性Mくんがいた。
彼はバプテスマ当時から、教会側が対応にもめていた人物だった。
彼を教えていた宣教師は、Mくんがうつ病だと知っていても、どうしても彼にバプテスマを受けさせたいらしく、熱心に、非常に熱心に教え、導き、励ましていた。
一方、支部長会側は懐疑的であった。
いわく、うつ病の人間はバプテスマを受ける必要がない、だの、もし改宗してもおそらく病気のせいですぐ教会にこなくなるだろうから、会員が彼の面倒を見るには責任が重過ぎる。だからバプテスマは伸ばすべきだ、少なくとも病気が全快するまで、などなど。とにかく議論が交わされた。
結局Mさんはバプテスマを受けた。宣教師は強力に推薦し、支部長は断り、結局伝道部長が後押しした。
Mさんは次の日、聖霊の賜物を受ける予定だったが、欠席した。
それからずっと教会を休んだ。教会側はろくな対応をしなかった。なぜわかるかといえば、私もその頃は神権組織のメンバーであり、ことの一部始終を見ていた。
それから二三ヶ月したころ、Mさんはひょっこり教会に現われた。
やはり調子が悪そうで、聖餐会の間中、小声で「死にたい死にたい」を連発していた。
そんな彼を支部長はみかねて「他の会員の迷惑になる」という理由から、聖餐会から追い出した。
追い出した、という表現は適当でないかもしれない。支部長はきっと「聖餐会の会員の霊性を保つため」だとか、ごにょごにょいっていた。しかしどう見ても追い出しだった。
彼はその後、何度も教会にやってきたが、会員も、支部長会も、Mくんには距離を置いていた。
「うつ病の人間にはどう接していいかわからない」
「苦手なのよね」
「もしMくんにホームティーチャーをつければ、そのホームティーチャーの負担が大きすぎる。もしそのホームティーチャーがMくんのせいで不活発になったらどうするんですか」
「監督会はバプテスマに反対をした。プレッシャーをかけたのは伝道部長会で支部に責任はない」
そのような様々な声が聞こえた。
私も自分自身Mくんに対して何もできなかった。そのことは後悔している。
しばらくするとMくんはぷっつりと姿を現さなくなり、十年後、ステークのダンスパーティーでばったりMくんと会った。
Mくんはすっかり回復していたが、過去の記憶が欠落していて、他の支部でバプテスマを受けていた。
聖霊の賜物を受けなかったので、会員とは確認されなかったのだ。
しかしその後うつが再発して、音沙汰がなくなってしまった。

Mくんの件に関して、二つの意見の食い違いが見られる。
伝道部長会および宣教師は、どうしてもMくんを会員にさせたかった。
ひとつは伝道部長会の目的は会員を増やすことなのだから、彼がうつ病なのは、神が与えたチャレンジに他ならず、解決の鍵を握っているのは地元ワードだと判断したのだろう。あるいはただ単に改宗者の数字が欲しかったのか。
地元ワードはもう、その時点でいっぱいいっぱいであった。
専任の牧師や神父がおらず、モルモンの指導者はごく一部を除いてボランティアである。家族、仕事をやりくりしながら、教会の責任を深夜にまでわたってこなすのである。
だからそんなところにMくんという新たな「問題」が加わることに、反発を示したのだろう。

しかし、この二つのケースは、長年、私の悩みの種でもあった。
モルモン教会が、そういった精神病の患者に対する対応が、非常に冷たいと感じてきた。
それはやはり、モルモン教会の体制に問題があるのだと私は結論した。

最近は何かと「癒し」ブームである。
この時代の宗教の優先的な目的は、社会に疲れ、傷つき、精神的疾患をかかえるまでになった神様の子供たちを慰め、勇気付け、助けるのが仕事だ。
だが極論を言うと、モルモン教会に「癒し」というのは存在しない。
モルモン教会は神の王国建設=教会の利益追求=のためだけにしか動いていない。
個人というものが見えてこないのである。
個人は二の次。まずは「神の王国と神の義を求めよ」である。
内面の充実、隣人への親切、環境問題、あまり関係ない。
教会に入れば入ったで責任が与えられ、馬車馬のように働かされる。
「これもみなシオンをつくるためです。いつか報われます」
この言葉を、彼等は馬車馬の鼻先に吊り下げられたにんじんのように聞かされ。猪突猛進してゆく。
結果として、前日のブログにかいたような落伍者、脱落者が出る。
彼等をどうケアするか、彼等にはマニュアルがない。
同じ信仰を持つものには愛のシャワーが限りなく注がれるが、そうでないものには一応門はあけておくが、後は自力でなんとかしてくれ、ということになる。
ここで反モルモンが生れる。
特にクリスチャン的地盤の少ない日本では、このようなパターンが多いと推測される。

重ねて言うが、モルモン教会に癒しなど期待したらダメです。
なんたって現在は「末日」末の日なのです。
とにかく会員を増やし、主の王国を建設し、世界中に神殿を建てなければならない、そんな時期なのですから。
教会にはいったあなたは即=主のしもべ、主の王国の建設者に召されるのです。
途中脱落したり、怪我をしたりしても、誰も世話をしてくれません。