五輪書 水の巻 兵法心持の事

「兵法の道において、心の持様は、常の心にかはる事なかれ。

常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にし、きつくひっぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心を直中に置て、心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那も、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。

静かなるときも心は静かならず、如何に疾き時も心は少もはやからず、心は体につれず、体は心につれず、心に用心して、身には用心をせず、心の足らぬことなくして、心を少しも余らせず、上の心はよわくとも、底の心をつよく、心を人に見分けられざるやうにして、小身なるものは心に大き成事を残らず知り、大身なるものは心に小きことをよく知りて、大身も小身も、心を直にして、我身の贔弱をせざる様に心持ち肝要なり(以下省略)」

 

さて、今回も心のことでありますが、心を扱うとどうしてもスピリチュアル好きが集まってきちゃうのでありますが、神秘的でもなんでもないのです。

 

武蔵は、手、足、頭、胸、腰などと同列に心を運動としてとらえているのです。

 

たとえば、「胸を広くして」と同じ感じで「心を広くして」はできますし、「身体を硬直、弛緩」と同じように「心を硬直、弛緩」もできます。

 

「ちょっと休憩」は「意識を弱く」「身体はリラックス」てな感じ。

 

身体と同じように心を色々と運動として扱えるのです。

 

でも、やれるのは意識についてのみコントロールできますが、無意識はそうはいかない。

 

「弱く」「強く」も私自身は「意識の強弱」しかできないのです。

 

「無念無想」「無心」というような言葉はよく聞きますが、これは「意識」を運動させるか運動を止めるかの話であって、「無意識の無念無想」や「無意識の無心」はできないと感じています。

 

だって無意識なんですからコントロールできない。

 

自然なまばたきや睡眠中の寝返りなどを「無心」で止められるわけがありません。

 

ヨガの達人は心臓の鼓動を止められるなんて聞いたことがありますが、剣道では役に立ちませんし、武道の上達のためにやれるようになる必要性もないわけで、それならもっと他にやれるようにならないといけない課題は山積してるわけです。

 

ですが、身体と同じように個々に感じ方は違うので、「上の心弱く、底の心強く」ということでも各自の感覚に合うように工夫しないといけないのは、手足を動かすのと同じ。

 

このブログでは「上の心」を「意識」、「底の心」を「無意識」としていますが、もちろんこれは私の捉え方です。

 

「底の心強く」といっても無意識を強くするなんて私にはできないので、「意識を弱く」することのみで無意識優位の状態にコントロールする感じなのです。

 

もっと言えば、「意識を弱く」という感じよりも「意識を薄く」の方が自分としてはやりやすい。

 

つまり、自分の言葉のイメージに心は引っ張られるので、どんな言葉を置くかは自分で探した方が良いでしょう。

 

意識を薄くできた立合は、無意識の技がたくさん出現します。

 

でも、どうやったのかは覚えておらず、ビデオを見ないと何をどうやって打てたのか自分で分析できない感じになります。

 

そういう立合が出来た後は、心地いいですね。

 

一生懸命やり切った心地よさではなく、山や海に行った時のような自然に身をゆだねたような心地よさが残りますから、少し眠くなります。よだれ

 

宮本武蔵は、ほんとうに面白いことを書き残してくれていると思います。

 

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