このブログでは、剣道において「むき出しの気迫も、大声もいらない」というようなことを何度も書きました。

集中力(心の開放)は必要ですが、相手を威嚇したり、自分自身を鼓舞するために大声を出すというようなことは、その集中力の邪魔になると感じているからです。

 

では、宮本武蔵はどう考えていたのでしょう。

今まで、武蔵が60歳になって書いた五輪書を題材に何度か同じテーマで書きましたが、今回は武蔵が20代の時に書いたといわれる兵道鏡の第1ヶ条を見てみましょう。

 

一、心持之事  (付たり座之次第)

心の持様と云は、まづ仕合せんと思ふ時、へいせい(平生)の心よりは、なほ静かになつて、 敵の心のうちを引き見るべし。

 

敵、にわかに声高く成、目大に、顔あかく、すぢはね立て、 すさまぢげなるは、ちうちをねらふへたなるべし。 左様のものには、なほ静かに心をなして、敵の顔をうかうかと見て、敵の気に逆らわざる様にみせて、太刀を取て、笑いて、上段の下に太刀を構て、 敵(が)打所を、ゆるゆると、はづすべし。さて、敵の気色、いな(異な)心なると疑様なる時,うつべき也。 

 

又人により、仕合に望時、言静に、目をほそく、すじはねも出ず、太刀取力なき様に見て、 太刀にぎりたる指、浮きて持たば、上手なりと思い、あたりへ寄せず、先をかけ、つるつると懸かり、追い払い、はやく打つべし。上手にゆるくすれば、しちように懸かるものなるべし。見合い肝要なり。

 

‐中略ー(場の使い方や位置取りについて言及している)

 

平生稽古の時よりは、心やすく、自在にしたき事をして、いかほどもゆるゆるとしたる心にて、 大事にかくる事肝要なり。転変肝要なり。

 

 

 

さて、いかがでしょう。

血気盛んで、自信に満ち溢れた若者のはずの武蔵ですが、すでに「試合(殺し合い)となれば、普段よりもなお静かな心で敵の心を見透かす」というような心で戦うんだと書いてるんですね。

 

「にわかに声が高く大きくなり、目を大きく開け、顔があかくなり、筋骨を立てて、凄まじさが表面に出て、力任せの打ちを狙っているような敵は、ヘタクソだ」と言い、「そんな奴には、より一層心を静かにして、敵の顔をうかうかと平然と見て、敵の気に張り合わないようにして太刀を持ち、ニッコリ笑ってやれ」とまで書いています。

「そうすると敵はクッソ~と打ってくるので、それをゆるゆると捌き、相手の「あれ?」となる心の変わり目を打てばいい」と、生死のかかった戦いで、なんと冷静なことでしょうか。

 

現代の剣道の指導書や実際の指導もここに書かれているヘタクソな人のやり方をやれということが多いように思うのです。

 

「試合に臨んだときに、声も静かで、目を細めて、筋骨立てずに、太刀を力みなく指を柔らかく持っているような敵は、できるぞ(強い)。できる敵には、相手に近寄らせるより先に、先を取り、張り合いなどせずつるつると懸かり、追い払い、相手が立て直す暇を与えず打つ。できる敵にゆるくすれば、逆に先を取られて追いつめられてしまう。相手の力量を見極めるのが肝心だ」と強い敵には、充実する余裕を与えないことが大事という感じでしょうか。

 

命のやり取りなので、「まずは合気で」なんて平和なのんびりしたことはやるなということでしょう。

(でも剣道でこればかりやってると面白くないので、私はまずは合気になりますが、表面上は張り合いに付き合ったようにしながら、実は自分の内面は「柳に風」の柳、「糠に釘」の糠になるように練っています。いえ、少しでも意図的になれば打たれちゃうんで難しいのですけども)

 

で、最後にもう一度「平生稽古の時よりは、心を柔らかくして、心身ともに偏りを排除し、自由自在となって、いかほどにもゆるゆるとした心でいることが肝要だ。相手だけでなく場の次第も含めて臨機応変、変幻自在であることが重要だ」と念押ししているのですね。

 

この兵道鏡の第1ヶ条を見ても分かるように、武蔵は心身ともに一切の居つきを排除しろと考えているのです。

 

五輪書は、非常に簡潔で合理的な文章に校正された感じになっているのですが、同じ宮本武蔵が書いた「兵道鏡」や「円明三十五ヶ条」を読まないと五輪書の誤読をしてしまうと思います。

 

五輪書は熊本藩主に頼まれて書いた兵法書なんで、コンプライアンスを考えて書いたような無駄に上品な感じもあり、分かりづらいところがあるのですが、「兵道鏡」や「円明三十五ヶ条」を読めば、「ああ、そういうことか」とやっと分ったりします。

 

五輪書だけ読むと大きな誤解をすることになると思っています。

 

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