さて、2021年4月からこのブログを書いてきましたが、私自身の身体感覚も深化していくにつれ、以前書いた記事が「違うぞ」と思うこともあるのです。

 

2021年7月25日に書いた「大きな面打ちと小さな面打ちは異なる技術」を自己批判してみようと思います。

 

大きな面打ちと小さな面打ちは異なる技術」に書いたことは、大方は間違っているとは思わないのですが、大きな誤解を生みますね。

 

確かに「小さな面打ちは、大きな面打ちの応用だ」と聞けば、なかなか小さい打ちが上手くいかないことがあるのは記事の通りです。

 

しかし、「異なる技術」としてしまうのはいかがなものか。

 

「異なる」と考えてしまうのは、大きな面打ちの際に「胸椎と手の内のしなやかさがなく、手の内の作用なく打っている」からですよね。

 

肝心なのは次のことと思っています。

踵を踏んでゆっくり始動すると、踵から頭頂部まで芯が通る感覚を得ます。

股関節の抜きによって落下が始まり、その重力落下による床からの反力が一瞬で踵から全身に滞りなく行き渡り、しなやかな胸椎の連動が手の内に繋がる結果、剣先が上がろうとするのを利用します(「竹刀は剣先から上がる」が大事)。

 

そこから後は、どこまで振り上げ運動を続けるかで、大きな面打ちともなり、小さな面打ちともなり、振り幅が違うだけということになります。

 

実は、面打ちに限らず、上記の赤文字部分が全ての打突動作の基本であって、小手も胴も突きもニュアンスの違いでしかないと感じます。

 

全ては「骨格と重力の調和」で「結果としてそうなる」のですから、ニュアンスの違いこそあれ、同じ感覚に内包されると感じます。

 

ですので、大きな面打ちが未熟であれば、小さな面打ちは「異なる技術」と感じてしまうわけです。

よって、旧記事の書きようはいただけない。

 

 

自分の記事に批判を入れるって面白いですね。

身体感覚が深化し、それを言葉に出来るようにならないといけないので、「未来の自分からのお叱り」ってな感じになりますね。

 

新たなテーマ「旧記事への自己批判」を設定することにしました👊

 

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