私は、五輪書を通して、「武蔵なら現代剣道でどう遊ぶか」ということを考えながら稽古しています。

 

「どう遊ぶか」と書けば「けしからん」となる先生もおられると思いますが、実際に人を斬る兵法と 安全を最優先にしてルールを決めて 竹刀で相手の防具をつけている決められた箇所だけを決められた方法で打つ競技となった剣道とが、同列のものであるわけがなく、武蔵から見れば剣道は遊びでしかないと思っています。

 

では、私自身が五輪書を読むときの注意点などを書いてみます。

 

私は、常々「五輪書の抜粋は、間違える」と考えてきました。

 

書籍やSNSやyou tubeなどで剣道家が「五輪書」を取り上げるものも沢山ありますが、そこでの取り上げ方は ほぼ100%「現代剣道を通して見た五輪書」になっています。

 

言い換えますと「五輪書を通して剣道を考える」というものが、本当に見つからないのです。

 

ほとんどの場合「五輪書のこの部分は現代剣道にも通じる。しかし、この部分は剣術にのみ有効だが、剣道には使えない」という捉え方になっています。

 

ですから、恣意的に自分の感性に合う都合のいい一文だけをピックアップするという形になっています。

 

でもそういう捉え方では、「この部分は現代剣道にも通じる」と捉えているものも、完全に間違ったものになってしまうのです。

 

例えば、英語のテキストを見て「この文法は日本人の感性にも合うけど、この文法は日本人には合わない」なんていう捉え方で英語を学んでも身につくわけがないのと同じです。

 

武蔵は五輪書全体を通して1つのことをいろんな角度から何度も説明しているのであり、五輪書の中にあれこれ雑多なものを寄せ集めているわけではないのです。

 

もちろん、この1つのことを言葉で説明し書き記すには、総論、各論と書き分けるしかないのですが、それをバラバラに解釈しては意味が違ってしまうのです。

 

ですから、五輪書の一文を抜粋して解釈した時に、その解釈が五輪書内の他の一文と矛盾が生じたならば、それは解釈が明白に間違っていると考えるべきなのです。

 

それに注意を払っている人はほとんどいないのが現状です。

 

ですから、五輪書の一部抜粋をもって、ビジネスに当てはめるというのは、飛躍しすぎていると思っています。

 

「五輪書の身体の使い方は分からないけど、心のあり方は分かる」なんていうのは、単なる思い上がりで、なんにも分かってはいないと思うのです。武蔵は、身体と心は1つのものとしか捉えていないのですから。

 

私自身も含め、五輪書を読むならば「自分は間違った解釈をしているかもしれない」と思いつつ、常に五輪書全体と矛盾しない解釈を志して、自分自身の心身の改善を目指す必要があるということです。

 

五輪書の一文について、五輪書全体とも矛盾のない解釈ができた場合には、五輪書全体を1つのものとして捉えられているということなので、その考え方ならば他の武道でもスポーツでも芸事でもビジネスでも役立つことになるでしょう。

 

武蔵自身が五輪書に「一字一句よく考えろ~、間違うぞ~」と丁寧に忠告してくれているのですから。

 

偉そうに書いていますが、かく言う私も、まだ、解釈に答えが出ていない部分も多くありますから、その解釈によっては今までの解釈がドミノ倒しのように改められる可能性もありうるわけです。

 

何年も書いてきたこのブログのあらゆる記事が全然違った解釈になる日も来るかもしれません笑い泣き

 

ですから、いつでも、自分の考え方を全て白紙に戻せる心の柔軟さは失わないように精進したいですウインク

 

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子供に多いのは面を打った瞬間に肩(特に右肩)が上がってしまうこと。

 

腕を伸ばし切って力んでいるからだと思っていた。

 

だから、いつも「力むな、力を抜け」と声をかけていた。

 

しかし、それですんなり脱力できる子はほとんどいない。

 

先日、屋外で竹刀と甲手だけ持って中学生2人に基本指導した際、発見した。

 

打突の瞬間に肩が上がってしまうのは、右手(または両手)を絞り込んでしまうからだ。

 

「打った瞬間に両腕を絞る」というのは私の子供頃にもよく聞いた指導だ。

 

「雑巾を絞るように」なんて言う指導もあったが、それは大間違いだ。

 

「絞る」と言われていた時代には皆、茶道の心得があり、そこでの「茶巾絞り」のことだ。

 

「茶巾絞り」と「雑巾絞り」は動作が全く違う。茶道の心得なんて現代人にはほとんどいないので「絞る」は剣道においては死語にすべきだ。

 

そこで「絶対に絞るな」と中学生にいうと、肩が上がらなくなった。

 

自分の体で確認してみると、どれだけ脱力しても、絞ると肩が上がってしまう。

 

こんな単純なことに気づけなかった自分を恥じる思いだ。

 

何がおかしいのか、何が原因なのか、瞬時に見抜けるようになりたい。

「やせるウォーキング」と書けば「え?歩くだけで痩せるの?教えて!!」と飛びつく人が多いのが現代人。

それを商売にされている人も多い日本。

 

それはどんな歩きかというと、「体力を使う歩き方」ということですね。

 

要するに「無駄を増やす歩き方」ってことです。

 

消費カロリーを上げて、短い距離でも、短時間でもすぐ疲れる歩き方をしようってことになります。

そうすると筋力アップするので代謝能力も上がって痩せますよということ。

 

でもスムーズに歩ける靴を選ぶんですよねえ。

(どうせなら重りの入った靴か、でっかいスリッパくらいの方が無駄は増やせるのに、、、)

 

さてこの「やせるウォーキング」、何年も続けるとどうなるか。

 

どこかを故障させることになりますね。

 

少し考えれば、誰でも分かりそうなものですが、そこはあえて見ないことにしています。

 

これ、剣道でも似たようなことがあります。

 

打突後の送り足←意味あります?歩み足で良くない?

 

打突後に通り抜ける←相手を素通りして背中向けたままでいいの?

 

音の大きな強い踏み込み足←オッチャン剣士に膝を痛めている人がいかに多いことか。

 

大きな声←これをやらないと気力が充実しないってことでいいの?

 

以上のことが全部そろって初めて「正しい剣道」でいいのでしょうか。

でも全部そろってないと有効打突にならないんですよねえ。

 

しかし、ゲームのルールとその慣習に合わせることが「理」ではないと思うのです。

 

中学生を指導していて、いつも悩ましい。

 

道理のないことをやるのを「無理」といいます。

 

武道は「理(利)」を求めてなんぼです。

 

誰かが作ってしまった既成事実の枠の中にだけいては理から外れると感じます。

 

自分の身体に聞く、自分を取り巻く自然の法則に聞く。

 

精進、精進。

 

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