能登半島の輪島から北方約50km、1日1便の定期船で約1時間30分、

 

荒波の日本海に舳倉(へぐら)島があります。

 

 

 

舳倉島は周囲約5km、海女(あま)の島として有名ですが、魚釣りやバードウオッチングでも人気です。

 

集落のあるのは港のある島の東側だけです。

 

 

*島の地図

 

 

 

奥津比咩(おくつひめ)神社

 

舳倉島は昔は「奥津島」とも呼ばれてました。

島の西側には人家がなく、小宮が点在し島を守っています。

 

総本社は奥津比咩(おくつひめ)神社です。

「西の宮」「舳倉権現」等、尊称されています。

 

ご祭神:田心姫命(たごりひめ の みこと)

宗像3女神の1柱(別名:奥津島姫、多紀理毘売命など)

 

 

 

 

奈良時代、能登国守であった大伴家持(おおともの やかもち)は能登を巡行し、その時の長歌が万葉集に載っています。

その中に輪島の地で舳倉島を歌に詠みました。

 

「沖つ島 い行き渡りて 潜(かづ)くちふ 

 

鰒(あわび)珠(たま)もが 包みて遣(や)らむ」

 

 

*輪島市の奥津比咩神社里宮にある、大伴家持の歌碑

 

◇大和田神社(ご祭神:素戔嗚命)

◇八坂神社(ご祭神:素戔嗚尊)

◇金比羅神社(ご祭神:大物主命)

◇龍神池・観音堂

◇無他神社遥拝所

◇恵比寿神社(ご祭神:言代主命)

◇伊勢神社:通称「やしろ様」

昔はここに奥津比咩神社がありましたが、江戸時代初期に現在地にご遷座されました。

◇弁天社(ご祭神:市杵嶋姫命)

 

 

島の歴史

 

島の西側の八坂神社と金比羅神社の間には「深湾洞遺跡」や「シラスナ遺跡」があり、弥生時代~平安時代の複合遺跡と考えられています。

 

当時の製造具などの土師器片、須恵器片や、食糧となった魚介類、アシカの骨が出土し ています。

 

 

*島の西側にある龍神池
 
 

島の伝承(輪島ご鎮座の重蔵神社HPから)

 

島には、永禄年間(1558~70年)に筑前鐘崎(福岡県宗像市)から渡ってきた海士(あま)が島の先祖という伝承があります。

 

筑前鐘崎には宗像大社の三社、沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮がそれぞれあります。

 

海士は宗像三社の三女神を輪島でも敬うために、舳倉島に奥津比咩神社を建立、七ツ島の中津比咩神社、(輪島に)重蔵神社をそれぞれ比定したといわれています。

 

地図を見ても舳倉島・七ツ島・輪島の位置関係と似ていて、昔、舳倉島は「重蔵島」とも書かれていました。

 

 

 

一斉渡島

 

へぐら航路の船着き場で聞いた話ですと、

現在は定期船が毎日運航していますが、昔は海士(あま)町の住民が6月初〜秋にかけて一斉に島に渡り、魚はもちろん、鮑・さざえ・海草等をとっていたそうです。

 

 

 

*現在の定期船<希海>

 

一斉渡島を行なっていた頃は
 
島へ着くと
自分の所管の小宮にお参りし、組の全員が集まり、今年の稼業の安全祈願をして、お神酒五升を夜通飲むという「五升通夜(ごしょうづいや)」をする。
 
それが済むと島民全員が奥津比咩神社に集まり、一年間の決まり事決める「仲間通夜(なかまづいや)」を開き、全員で飲み明かす。

一年の家業を終えて一斉離島する時も
同様に「礼通夜(れいづいや)」を行っていたとのことです。
 

 

*蟹・かに・カニでいっぱい。
フェリー<希海>が到着した輪島漁港にて 
 
舳倉島
石川県輪島市海士(あま)町
定期船が1日1便運航
 *天候などによって欠航となる場合もあるので、
必ず、へぐら航路㈱のHPや電話で運航確認おすすめします。