昔からある言葉で


人のふんどしで相撲をとる


ってのがある。



身近な具体例をあげれば


音楽のカヴァーはそんな感覚。


既存の、すでに世に出ていて

かつ、すでに名曲と呼ばれてるような類いを

再度、別の人間のフィルターを通してリリースすること。


良いか悪いかは受けとる側の判断に委ねるとして


今の時代、

このふんどしの使い方は嫌だなってことがある。


SNSだ。


誰かが発信したことを


その関係者ならまだしも

まったく無関係の者までが


あの発信は~○○でしたね

あの発信は~XXでしたね


と被せてくること。


これまた具体例をあげれば


著名な誰かが不倫したとして

そのことを本人が

「軽率な行動で…」と謝罪を発信。


するとこの発信(ふんどし)を引用して


ここでそんなこと言わないほうが良い

だの

タイミングが悪かった

だの

すごく共感できた

だの。



冷静に考えると


どっちもキモイわ。



だけど「ふんどしの持ち主」に文句つける奴は

不思議と持ち主よりも優位な立場にいて

さも正義を振りかざしてのたまっている。


よーく考えてみ?


最初のふんどしは

あとから色や形は変えられない。


それなのにそのふんどしを見て


いや、青じゃなくて赤が良かった

いや、長さは1mじゃなくて2mが良かった


と言ってるようなもんである。



完全なるあとだしじゃんけんしてることに

気づいてないし、なんなら

勝ち誇った気でいる奴もいる。


一昔前なら

人のふんどしに文句つけるのは

テレビ、ラジオ、雑誌だった。


でもそういった媒体は

生放送だったとしても、

身近なところに多数のスタッフがいて

人知れずチェックをしてたり

されていたりってことがあって、

その環境の中で既存のふんどしに文句つけるのは

ある意味、意図や確信や責任を持って

文句をつけていることが多い。


だがSNSに関しては、

下手すると個人のスマホから

誰のどんな検閲も介さず

さくっと人のふんどしに文句つけられるわけで、


そこがとても問題なのである。



もう、その一連のダサさを

なんなら小学校とかで教育として

これ、ダサいよと刷り込んで欲しい気すらある。



SNSってさ、

世界中の人が、心に思ったことを

なんとは無しにつぶやくツールなのだろうが


それってさ、


街を行き交う赤の他人が

すれ違いざまに

「あー腹減ったー」

「お!あの娘可愛いなぁ」

「なんかイライラするなー」


なんて心に思ってることが

聞きたくもないのに聞こえてしまうこと

と同じだと思う。


普通に道を歩いてて

すれ違う人が

「うわ、こいつ汚ねーな!」

「なんだよこいつの服、ダセ~」


って自分に対する心の声が聞こえてしまったら


イヤでしょ?笑



それと同じってことに

いい加減気づいてくんないかなぁ。