先輩に挨拶に来た新人アニメーターさん6人が全員カウボーイビバップを知らなかったという話を聞いた。
じゃあ今の子は何を見るんだろうか。
新作だけでも凄い量が供給されていてそれを見ているだけで一日が終わってしまうから、古典を履修する余裕なんて無いのだろうか。
アニメーターさんは自分の腕で生きる職工さんだ。
職工さんとして腕を上げるためには古典を知らなくてはいけないけれども、若いと特に新しいものに目を奪われるのは仕方が無いかも知れない。
その若いアニメーターさんたちが「私には古典が必要だ!」と求めるのはいつだろうかと考えるだけで楽しくなるね。
私も古典をあたろうと東京ラブストーリーを読み始めた。
1巻は1990年の発行だ。
絵もコマ割も演出も個性的で古くさい感じはしない。
ただ、全てがどこかで見たことのある設定だ。
それは実は前後が逆で、私はこの東京ラブストーリーに影響を受けた作家の作品を先に読んだのである。
これが始まりなのだ。
7つの習慣とか、ドラッカーとかもそうだけど、後陣にこすられ過ぎると古典を読んだときの新鮮さってあまり感じられない物だ。
「知ってる」
「これもう読んだ」
率直にそう思う。
しかし、古典には古典からしか読み取れないピュアな情報っていうのがあるものだ。
それは「私」という観測者によって観測される「私」の感想だ。
「私」の感想は「私」からしか得られない。
だから古典をあたるのだ。
それは「私」を探す行為なのかもしれない。
私って究極自分にしか興味がないのかも知れないな。
そういう意味で源氏物語の陳腐化しなさって凄いよね。