毎朝のコーヒーは東のテラス越しに景色を眺めながら飲む。
ここ暫くの間、ブルー・シートを掛けて工事中であった建物が外観を現した。
白黒の遠目にも目立つ造りである。 (丁度、我が家の工事中に借りていた
駐車場の前に当たる位置で、同じ頃に工事を開始していたのである。)
この方向から左に東京タワーが臨める。
西に美しが丘の高級住宅地を臨み、東に自分の生まれ育った
東京タワーが臨める高台に建つ家で思う事は・・・
( 望みが大き過ぎて、言えない。)
昨日、息子のボクシングの試合で向かったドライブ・ルートで
通り掛かった六本木から飯倉片町へ抜ける外苑東通りに
懐かしい旧郵政省やロシア大使館を見た。
小学校3年から文化服装学院で学び、(株)鈴屋へ入社し
結婚した(17年間)のもこの地 「狸穴」である。
途中思い出しついでに立ち寄ったのが、神谷町の「岡埜栄泉」
愛宕山トンネルの前から迂回してみたものの、残念ながら
休業日であった。
この店の豆大福はまぼろしの一品となっており、未だに
購入が叶っていない、子供の頃の思い出の味である。
東京タワー麓のうなぎの「野田岩」(父のお気に入りだった。)を過ぎ、
赤羽橋を通過し三田通りの慶応大学を過ぎた頃に、
運転してくれている友に頼んで芝浦に連れて行ってもらった。
自分の生まれ故郷である。
札の辻を越えると、何とも懐かしい響きの「八千代橋」(当時は
宝塚の春日八千代が最高の美女と思っていたものだ)。
小学校2年になった位の年齢の記憶であるが、多分この辺りだろうと
見当を付けたのが、現在のNECのビルディングである。
当時は「大塚自動車修理工場」という、大層広い敷地を持つ工場で
事務所の他、社宅がわが家族を含む4世帯あったと思う。
自家用車は官公庁御用達であったり、バス・トラックや駐留軍の
ジープ等も多く修理していたようだ。
(子供CoCoRoにアメリカさんに媚びるようにして、チョコレートやガムを
ゲットしていたような映像が、昔のルポルタージュを見ると自分達のように
オーバー・ラップして見えたものだ。)
新しい家に住みながらも次の希望を目指して
毎朝のコーヒーを飲む折に頭の片隅にある、
自分のルーツに戻りたい願望は
今回目にしてみると、”終の棲家”としての魅力は減退していたのである。
良かった! 所詮 無理で現実離れしている希望である。
叶えようと思わなくなって大分、気が楽になったのである。
それも、息子の試合の前だというのに
緩やかに自分のCoCoRoに浮かんで来たのも
何かの縁かもしれないと思っている。