最近、自分の動いている姿を目にする機会がありまして、
それが、なんというか、地獄、だなんて簡単には言いたくないくらいの
地獄でした。
なんだ、この、醜い生き物は。
私という物体の醜さたるや・・・・・。
どうしよう・・・・もう存在しているのもイヤだ。
なんて思いながら
それでも割と何度も目にすることになってですね、
その度に苦痛だったんですけれど、
ある時点で慣れたといいますか・・・
「どんなに醜くても、これは紛れもなくワタシなんだ」
って思わされて、
それでなんとなーく肩の力が抜けたんです。
私は今まで自分の姿をマジマジと見たことがなくて
化粧をするときもなるべき全体を見ずにパーツを見るようにしたり
(化粧時にこれ↑は最もやってはいけないこと)
全身鏡に自分の姿がうつると当然目を背けたり、でした。
今回、必死で自分を目にしていた中で
「この醜い物体は紛れもなく私」
と思った瞬間、
ああ、そうか、
私は
「自分を醜いと思っているから自分を見たくなかった」のではなくて、
「この醜い物体が自分だと認めたくなかった」から自分を見たくなかったのか
(ややこしいな)と思ったんです。
いわゆる「本当の私はこんなもんじゃない」状態です。
ああ、愚かしい。
馬鹿愚か。
みっともない。
浅はか。
子供かっ!10代の夢見る子供かっ!
*
私は馬鹿みたいに自意識過剰だから
他人は私を目にするたびに「なんて醜い人間なんだろう」と思っている、と
思っていました。
でも実際、他人は私のことなどなんとも思っていないのです。
いや、たとえ「醜い人間」だと思っていたとしても
それはほんの瞬間なんです。
そして、それが瞬間であろうと一生であろうと
それがなんだというのでしょうか。
私は美しい。
私は醜い。
だからなんだというのでしょう。
美醜の価値観など、(無意味とは言いませんが)取るに足らないことなのです。
しかし、そこに大いなる価値を見出していたのは
他でもない私だったのです。
愚かしい・・・・(再)
*
私は今、自分の醜さと向き合わなければいけません。
たとえ誰かが
「あなたにはあなたの美しさがある」と言ってくださったとしても、
その前に私は私の醜い姿から目を背けずじっと見つめ、見留め、認めなければいけないのです。
それをしないと
私は誰の言葉も信じられない。
私は醜い 私は醜い 私は醜い。
でも、それが私。
そこがスタートです。
「醜くていいじゃない」なんて開き直りはしません。
前に記事で
「ブスはいない ブスだと思う心がある」
と書きました。
そう、心です。
自分の姿を認めるということは
自分を醜いと感じている心と、対峙することです。
「私は美しい」なんてアファメーションもしません。
表面的な言葉は無意味です。
やっぱり、心、なのです。
その先にある、
醜さと美しさから解き放たれた私に会いに、
私は今、醜い心と向き合っています。
*
折りしも
「累」の最終巻を読みました!
顔を変えられる紅で「美しい顔」を手に入れた累は
その紅を捨て、
ようやく自分の醜さと対峙し、
その先にある「私」と出会いました。
この物語の中で初めて見る、累の表情に
何度見ても涙が出ます。


