元禄赤穂事件 三代藩主 浅野内匠頭長矩 ① | キンタマンコ

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三代藩主 浅野内匠頭長矩あさのたくみのかみながのり

出自など

浅野長矩像
花岳寺蔵

  • 生年 寛文七年八月十一日(1667)
  • 没年 元禄十五年三月四日(1702)・享年三十五歳
  • 戒名 冷光院殿前少府朝散太夫吸毛玄利大居士
  • 禄高 五万石・身分 播州赤穂城主従五位下朝散太夫内匠頭
  • 生国 武蔵国江戸生まれ
  • 幼名 又一郎、又一、又市郎
  • 教養 雅号は梅谷・茶は石州流・書は北島雪山・兵学は山鹿素行

性格 短気でわがまま

強硬清廉にして短気、わがままで学究肌。長矩は後継に弟の大学長廣を充て側室を持たなかったなど一途な気質が定説となっています。

持病 発病時に刃傷事件を起こす!

内匠頭には痞(つかえ)という持病があった。つかえとは胸が圧迫されて苦しむ病で三月十一日頃より病状が進み、天候も曇天や雨で病状を悪化させる要因になった。記録によると十二日は終日雨、十三日は曇天、江戸城松の廊下で刃傷事件を起こした十四日は花曇でした。

難解な遺言 意味を推測

遺言「此段兼て為知可申候共、今日不得止事候故、為知不申候、不審に可存候」 飯尾精先生は「千鈞の重みのある言葉で意味深遠な思いのこもった遺言」だと解説されています。

遺言の意味

「予め知らせておくべきであったが、今日の殿中の刃傷も一時の腹立ちではない。武士として忍びがたく、堪忍できなくて止むを得ず起こったことである。そういうわけであるのに、何も知らせなかったからさぞ不審に思うだろう」であり、推測はできるものの、これだけでは理由、原因がよく分からない。遺言を書くことを許されず、田村家の家臣が口述を筆記した事情があり、幕府への配慮もあって、かかる遺言になったのかも知れない。

辞世の句 ほんもの?

「風さそふ 花よりもなほ 我は亦 春の名残を いかにとやせん」

句の意味

淡々と死に向かう境地を心静かに詠んだ詩だが浮き世への未練はいかんともし難いと受け取れる。

句の真贋

切腹の有様については多数の史料「多聞伝八郎筆記」「江赤見聞記」「浅野長矩伝」「浅野内匠頭御預一件」「田村家浅野長矩御預之節扣」それぞれに記してあるが、辞世の句が出ているのは「多聞伝八郎筆記」だけでその中に御歩行目付水野杢右衛門が受け取って田村右京太夫に差し出したとあるが、切腹をした田村家の記録である「御預之節扣」には何も記録されていない。又、浅野家へ引き渡したものの中にもこの辞世を書いた紙は入っていない。その為、此の辞世の句の信憑性を疑うむきもある。

介錯人 介錯を仕損じる

「浅野長矩伝」によれば「磯田武太夫介錯仕損じ申候哉。御耳の脇に疵これ有るの由。御死体受取りに参り申し候者申し候」と武太夫が介錯を仕損じたとある。 切腹時の詳細

妻 阿久利(瑤泉院)瑤泉院像

寂しい余生 備前三好藩因幡長治の次女として寛文九年(1674)に備後三次で生まれる。剃髪後「瑤泉院」、雅号「玉水」、仮名手本忠臣蔵では「顔世御前」
  • 延宝五年(1677)七月阿久利五歳の時に結納
  • 延宝六年(1678)四月九日に浅野家屋敷に引っ越しをする
  • 天和三年(1683)正月十一日十歳で結婚する。長矩は十七歳
  • 元禄三年(1690)同棲する。長矩二十四歳、阿久利十七歳で子供はいなかった
  • 長矩の死後は名を瑤泉院と改め、今井坂の浅野家(備後三次浅野江戸藩邸)に引き取られ余生を送る
  • 正徳四年(1714)六月三日今井町三次浅野家下屋敷で没する。享年四十一歳。泉岳寺へ埋葬。戒名 瑤泉院殿良瑩正澄(りょうえいせいちょう)大姉

阿久利姫の持参金

討ち入り資金に 嫁入りの持参金を赤穂の塩田業者に貸し付けてその利子を化粧代とし、貸し付けの総額は五千四百七十両余と記録に残るが赤穂開城に際し回収できたのは六百九十両で回収率は10%ほどであった。この回収資金を大石内蔵助は浅野家の家名再興や討ち入りの為の活動資金に充てたのである。
討ち入りを前にした十一月末に収支を清書した決算書を瑤泉院付の家老落合与左衛門信勝に届けている。

浅野大學長廣 浅野内匠頭実弟

  • 生年 寛文十年(1670) ・ 没年 享保十九年(1734)六月二十日 享年六十五歳
  • 法名 亮監院月清涼山、墓所は泉岳寺
  • 浅野長友の次子で内匠頭長矩の実弟
  • 内匠頭の養嗣子として赤穂領の新田三千石を分知、旗本寄合を務める
  • 閉門 刃傷事件勃発で閉門の処罰を受ける
  • 差し置き 元禄十五年七月十八日、広島浅野家への差し置きが決まる
  • 赤穂浅野家再興 宝永七年九月十六日、安房国朝夷郡に五百石を拝領して旗本寄合に復帰する
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