機能主義は、社会という大きな枠組みと、諸派あるが、最後は人間個人まで、その相互関係を「機能」という概念を用いて把握しようと言う試みである。
けれども、僕が思う問題点は、やはりその関係性に対しての主観性である。A=Bという因果は、どうしても主観的にならざるを得ない。経験的にやがては実証される(限りなく)かもしれないが、始めの理論においては仮定の域をでない。
ツイッターを見ていると、しばしばA=Bという式を高らかに述べている人間がいる。文学や芸術や、もしくは学問的定説まで。
上記の機能主義の捉え方は、ある著に寄ったもので、この機能主義のあり方さえも、当然、個々人によって違ってくる。ここで生じるズレが、恐らく人間世界の複雑さを生む。
A=Bと発言するとき、ウェーバーに寄れば、二つの倫理が潜まざるを得ない。ひとつが「心情倫理」、もうひとつが「責任倫理」である。
先の倫理は、信じている、という感情に起因し、合理的な説明を持たない。およそ非論理的で、他者との共有は難しい。
後者は様々な客観性を蓄えた後、それでも排除する論理を十分認識した上で、宣言する、ということになる。これはある程度(最終的な絶対性は無い)まで理論化される。だから、かなり近しい部分までは相互理解が可能になる。
「責任倫理」をウェーバーが支持したのは、最終的なところを神や真理に頼らねばならず、その不誠実製に葛藤した上で、それでも発言することの意義をもって、それが招くあらゆる可能性に責任を持つ、その態度所以である。つまり、A=Bという概念を発言する場合、それだけの覚悟が必要だ、ということだ。
例えばイスラム原理主義を機能的に捉えるとどうであろうか。パーソンズの方法で捉えるなら、彼らはAGIL全ての役割を担っている。そうした上で、その地域において、反米というイデオロギーの元で社会維持を行い、同時に世界規模では、一端の破壊によって、より安定化した世界を再構築する機能を与えられている。
こうした捉え方は、原理主義者たちに偏っている。けれども、全ての組織および行為は、機能を持っているために、それは特にポジティブな要因として、語られなければならない。こうした、偏りを産んでしまうために、機能主義はあるところで批判に晒される。
まあ、西洋からも同じようにやれば、バランスは取れるが、そのようにマートンは言うが、けれども、そのバランス感覚も主観的であるし、その対立した機能主義による分析を並べることでなんになるのか、という疑問もある。
僕たちは、すべて、ひとつひとつの発言に機能を持たせようとしている。この発言が、誰かの目に留まらないか、誰かが反応してくれないか、と密かに願っている。けれども、この世の中の大抵は意味などそもそも持っていないのではないか。結果論として、意味づけされるだけではないのか。
A=Bという発言をすることへの意味と、A=Bが持つ意味は異なる。それを重々承知しなければ、「責任倫理」に達することはできないのではないだろうか。
