京セラドーム大阪の外野通路に置かれた特設展示。

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右が門田博光選手のユニフォーム、左が、梨田昌孝選手のユニフォームです。

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梨田さんは、現役最後の打席は1988年10月19日、川崎球場でのダブルヘッダー第1試合でした。
この時、応援団員として、この場所に居合わせた僕に生涯忘れえぬ思い出をくれました。

そして2001年、監督として大阪近鉄バファローズ最後の優勝を成し遂げ、僕にとって、仰木彬監督と並ぶ近鉄の名将となりました。


あ、西本幸雄さんは別格です。
それでは西本幸雄さんにまつわる品を。


近鉄バファローズ、1979年日本シリーズのバネル
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同じく1980年日本シリーズのパネル。

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この頃は、近鉄が本拠地として使用していた藤井寺球場と日生球場は、日本シリーズを開催できる要件を満たしておらず、近鉄の主催ゲームは南海ホークスの本拠地である大阪球場を借りて行われたそうです。


そして、大阪球場が本拠地の南海ホークスの日本シリーズのバネルがこちら。

1964年
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1973年
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水島新司先生のライフワークともいえる野球漫画『あぶさん』が連載開始されたのも、ちょうどこの頃ですね。

僕は、近鉄バファローズに惚れ込み、応援団員となり、パ・リーグが好きになった高校生の頃に『あぶさん』を読み始めて、学校の帰りに、新小岩の古本屋さんで、『あぶさん』を少ない小遣いをやりくりして買って通学の電車の中や授業中に読み耽ったものでした(←こら)。
ですから、1973年あたりからの南海ホークスやパ・リーグの知識は、『あぶさん』から吸収した部分が大きいです。

ちなみに、『あぶさん』を読み始めた高校一年生の頃に野村克也さんがヤクルトスワローズの監督に就任して話題になりました。
それまでは、口うるさいオッサンというイメージでしたが、あぶさんを読み進めるうちに、そのイメージは一変。








“キャッチャーで四番打者で監督”
プロ野球の中で最も重圧のかかるポジションを一人でこなし、しかも通算500本を超えるホームランを打ち、三冠王という実績も。



化け物ものですか、この人あせる

ヤクルト監督就任前も、野村スコープを用いて投手の球種やコースを分析する解説が評判だったのですが、納得です。

そこから、パ・リーグの偉大なる先人として野村克也さんを尊敬するようになりました。
そして僕はクラスメイトに言いふらす。
「ヤクルトスワローズは三年後くらいに優勝する」と。
そしてこの予言は当たり、これまた僕の尊敬する仰木彬監督率いるオリックス・ブルーウエーブと日本シリーズで相まみえるわけですが、それはいずれまた書くかもしれません。

マスコミの注目度が高いヤクルトスワローズで花開いた“野村ID野球”は、あまり注目されていなかったパ・リーグの南海ホークスで昔から実践されていたそうです。

まあ、ヤクルト優勝については、野村さんについて勉強して、当時のスワローズの選手達の身体能力と照らし合わせれば簡単に予想がつきましたが。
あのポテンシャルを持つ選手達が、野村さんの野球を実践できるようになれば、そりゃあね…


それでは余談を二つほど。

江本孟紀さんの「ベンチがアホやから」という発言は、阪神に移籍してからのミーティングが、野村野球でのミーティングに較べて酷すぎると映ってしまったために出てしまったのだとか。
それほど野村野球のデータ分析のレベルが高すぎたのだそう。
(『南海ホークスの歴史』より)


もう一つ余談。
“世界の盗塁王”福本豊さん。
マー君こと田中将大投手が、本来の志望球団ではない、野村監督率いる東北楽天ゴールデンイーグルスにドラフト指名された時に、田中投手の親族から「将大は東北楽天に入団させるべきでしょうか?」と相談されたのだそうです。

その時、福本さんは何と答えたか?








「それは絶対に入団させるべきです!ノムさんほど野球を勉強させてくれて成長させてくれる監督は他には居ませんよ」と。
(福本豊著『走らんかい!』より)

現役時代に野村さんと“塁を盗るか刺されるか”の丁々発止の戦いを繰り広げていたライバルだからこその発言でしょうね。
こういうコトを言える福本豊さんもまた、たまらなくカッコイイアップ

こういうエピソードを知る度に、パ・リーグファンとして胸が熱くなり、またパ・リーグが好きになります。




それでは続きます。







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