いつになく天候不順が続いた5月が過ぎ、令和6年は早くも半ばになりました
「全国みどりの愛護のつどい」が終わったばかりですが、6月定例議会を前にして色々忙しくなりそうです
とは云うものの、朝刊の隅々まで目を通すことが毎日のルーティンで、何ヵ月か続けていると今現在の世情が何となく見えてくる様です これからも当分続けなければと思います
近頃はネットで見る我が国の政治状況やウクライナ、ガザの戦況にウンザリしつつも、あくる日の新聞でそれを確かめることも習慣付いてきました
行事や日々の出来事に気を取られていると、しなければと思っていた事を忘れたり、また明日にしようなぞと、元来のなまけ癖もしくは先延ばし癖が頭をもたげてダラダラ時間を過ごしてしまい、そのことが気落ちを引き起こしてしまう悪循環で、頭の中はモヤモヤしがちです
ブログを書くのはモヤモヤした頭の中を整理するのには役立つことは分かっているのですが
一念発起、久しぶりに書いてみます
新聞は日々の出来事を報じるものですが、時として胸に残る記事にお目に掛ることがあります
5月の中頃でしたか、モンテーニュとの対話という記事で、林家たい平氏が演じた古典落語「
箍屋(たがや)」を引き合いにして我が国の今の政治状況を眺めた記事で、以下の様な噺です
「箍屋」・噺の筋は、花火で幕を開けた両国の川開きで「玉や~」と声上る人混みで、箍を手にした箍屋が、輪になっていた箍を弾みで落としたら勢いよくほどけ、馬に乗って通りかかった侍の笠を弾き飛ばしてしまいます
箍屋は平伏して侍に許しを乞うが、侍は「手打ちにしてくれる」
開き直った箍屋は「斬れるものなら斬ってみろ」
侍は刀を抜いて斬りかかるが、箍屋はひらりと身をかわし、刀を奪い取って侍を斬り倒すと、両国橋の上の群衆から「箍屋~」と声が上がるという噺です
江戸時代に成立したこの噺の原型は、箍屋が侍に無礼打ちされ幕となっていたが、幕末の動乱期に侍と箍屋が入れ替わって現代にまで受け継がれてきた噺だとか
なぜ無礼打ちにされた箍屋が、侍を返り討ちにする話に入れ替わったのか
幕末期は、国内では大飢饉に襲われ多数の餓死者が出た 諸藩の財政は危機に瀕し、加えて西欧列強による侵略が現実味を帯びてくるにも拘らず、適切、敢然と対処できない侍層が、従来の身分制度の上にふんぞり返り、庶民に偉そうに振る舞う事への不満が、侍層に対する庶民のルサンチマン(弱者の強者に対する鬱積した報復感情)の発露として、この古典落語の侍と箍屋の立場を反転させたのだろう、という推論です
翻って今日の政治状況を眺めると、自民党に対する国民のルサンチマンはかつてないほど高まっている 保守派の識者は議員の国家観をこそ重視し、裏金問題を軽く見ようとするところがある
もちろん国家観はとても大切だが、その前に議員の人間性に執着するところがある
イデオロギーはまず棚に上げ、人として信頼できるかどうか、判断の基準はそこだ、という筆者・・モンテーニュの言葉「自惚れは我々の持って生まれた病である。全ての被造物の中で最もみじめで脆いものといえば人間であるのに、それが同時にもっとも傲慢なのである」と
概ねそういう内容の記事です
何十年振りかで聴く「ルサンチマン」という言葉が「う~ん、こんな思いを表しているんだったなぁ」と思い起こされつつ、この記事の執筆者と同じ様に「そうだよな」と納得する思いを抱く自分が、今の世の通念から外れてはいないのだろうと自己確認する反面、もしかしたら執筆者共々時代から取り残されているのかもと思ってみたり
いずれにしても、和歌山の地方政治状況についても合致しているところがある話だと思うし、職場での会話からにじみ出る各自の言葉からも、同じようだなと思うところがあります
小学6年生が広報担当議員の案内で議場見学、その日登庁していた議員が見守ります
今迄花を咲かせなかったのに今年は・・
和歌山リトルリーグの6年生卒団式
卒団選手7名がリトルでの野球生活を振りかえって、思いを発表します
時に胸を詰まらせて言葉にならなかったり・聞いている方もついウルウルと目頭を押さえます
和歌山市議会議員 北野 均