金八みかんの成長日記
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ルーツを探って②

神社や資料等で祖先が属していた宮﨑陶器商人のことは分かったのですが、もっと詳しいことが知りたいと、さらに調べることにしました。

 

母にたずねても、九州から陶器を売りに来たということしか聞いておらず、その上の世代の人を探したいところです。

ただ、その上となると、さすがに高齢で、なかなか見つかりませんでした。

 

親戚から近所の人まで片っ端から聞いていると、祖父の従弟が健在ということが分かり、会ってもらえることに。

 

御年88歳、ほぼ初対面のような感じだったのですが、ふさふさの眉とまつ毛、二重の大きな目、祖父と似た風貌で懐かしく嬉しい気持ちになりました。

 

家系図や資料を持ってきて下さいました。祖父の家系は栗山という名字です。

 

言い伝えや文書によると、もともと黒田家の家臣で、殿様に従い姫路から福岡に移動した。

それから一族の一人が、五島列島に移り住んだのが先祖である。

 

九州から瀬戸内回りで商品を船で運び売買をしているうち、和歌山に拠点があった方が便利だと移り住んだ。

移り住んだ当時、今の箕島付近は湿地帯が多く殆ど人が住んでいなかった。

ということでした。

昔、京都大学から宮﨑陶器商人の調査に来て、栗山家のことも調べてくれたこともあったそうです。

 

何百年も前のことで、黒田家の家臣だったという言い伝えや文書などはどこまで信憑性があるか分かりませんが、五島列島からやって来たのは間違いないようです。

紀州藩は産業育成に力をいれていて徳川御三家。商売をするのに有利だと移り住んだのかも知れません。

 

有田市図書館にある「箕島町誌」によると、嘉永三年に五島屋長次郎が紀州藩から100両を借りた証文の資料が記載されていました。

藩は事業資金の融資も行い陶器商人を支援していたようです。

 

 

箕島町誌には、伊万里からさらに南下、「薩摩通」という商人もいたことが記されていて興味深いです。

こちらは黒江漆器、鯨骨などを販売し、帰り荷に屋久杉や陶器を仕入れていたようです。

「薩摩貿易」という、薩摩の南の島で異国と密貿易していた事例も記載されていました。

江戸へ商品を運んでいる途中、伊豆付近で漂流、与那国島に漂着したこともあったようです。

 

ちなみに、日本人による小笠原諸島の最初の発見報告は1669年、現有田市を出帆したみかん船が遭難、漂着してのことと考えられています。

 

有田みかんも、熊本の八代から苗木を持ち帰って植えたのが始まりと言われていて、九州と和歌山有田とは繋がりが深いのでしょう。

 

漂流リスクがある中、命懸けで日本の東と西をつなぎ、価値を生み出していたのだなと調べながら感服しました。

 

もう少し調べて、五島列島のどの地域から来たかが分かれば、五島列島、伊万里を訪れたいと思います。

ルーツを探って①

書評でよく推薦されていた『みんな彗星を見ていた』を読んでいると、著者の一族は千葉県外房、御宿の鰯漁師。

そのルーツを辿ると江戸時代、和歌山の湯浅か加太から移り住んだ紀州漁民だそう。

著者が先祖について調べた『コンニャク屋漂流記』という本も紹介されていて、続いて注文しました。

 

東京五反田から、千葉、和歌山をたどる『コンニャク屋漂流記』を読んでいるうち、自分も江戸時代、九州から和歌山に移り住んだ伊万里焼の商人だったという先祖のことをより知りたくなりました。

ミカンや梅の販売してもらっている先に器を扱うお店が何軒かあり、「そういえばうちの先祖は陶器商人だと言ってたなあ。」と思い出したのが最初興味を持ったきっかけでした。

 

江戸時代和歌山有田には、宮﨑(箕島)陶器商人と呼ばれる、和歌山黒江の漆器を九州で販売し、帰り荷に伊万里焼を仕入れ、江戸で販売していた商人がいました。

私の先祖は九州から移り住み、この陶器商人に加わったようなのです。

 

ネットで以前見つけた記事によると、九州の有田焼を全国に名の知れた特産品としたのは、紀州箕島(和歌山・有田)の商人の力が大きく、焼き物の流通ルートに乗り、紀伊から肥前へ海を渡り実業家がやってきたことが記されていました。

 

 

自分の先祖について調べれば和歌山有田の歴史をもっと知ることができ、これからの取組みのヒントになるかも、と本格的に調べることにしました。

 

 

陶器商人だったという先祖は母方の祖父の家系です。

アルバムにあった子供の頃の祖父と大叔母、曽祖父。

写真の曽祖父が陶器商人の先祖を持ちます。

曽祖父は私の生まれる前に亡くなっていて、祖父も私が高校生の時に、大叔母も既にいません。

話を聞けないのが残念です。

 

祖父の写真。彫りが深く、九州にルーツがあるのが分かるような気がします。

 

 

幸い「五島屋」という先祖の屋号が分かっており、宮﨑陶器商人の資料は地元の図書館などにも残されています。

まずは資料や神社から調べていくことにしました。

 

近所の箕嶋神社に。

 

ここには陶器商人が航海安全を祈願し奉納した石柱があります。

 

図書館で読んだ「箕島神社誌」によると、奉納者の陶器商人37名中に、五島屋長藏、五島屋吉兵衛の名前があり先祖も奉納者に加わっていたことが分かりました。

 

萬延元年(1860~1861年)に奉納されたことも記されています。桜田門外の変があった頃です。

 

香川県の金毘羅宮にも宮﨑陶器商人が航海安全を祈願した伊万里焼灯篭があり、東京都港区白金の浄土宗専心寺には、販売先の江戸で亡くなった人達の墓があると書かれていました。

やはりその時代、九州から江戸までを航海するのはとても危険が伴ったようです。

 

同じ有田の広川町には江戸時代の1827年に開かれた南紀男山焼の資料館があります。

 

 

 

男山焼も宮﨑陶器商人により販売されました。

紀州藩によって協力に推進され、宮﨑陶器商人の力で全国に流通させ藩の利益にしようと考えたようです。

 

宮﨑陶器商人は1688年頃から伊万里焼の販売に携わったようだと記載されています。

そこから箕嶋神社の石柱が奉納された1860年の間に先祖は九州から和歌山に移り住んだことが推測できます。

年代の幅が相当広いですが。

 

男山焼会館のすぐ傍には廣八幡神社があり、ここにも立ち寄りました。

会館、神社のある広川町は漁業の先進地域でした。

この地域の漁民は千葉県の外房まで出漁、漁業技術を伝え移住しています。

関西地方で綿花栽培が盛んとなった時期で、その肥料に用いられる鰯の需要が高まりました。

鰯と新しい漁場を求め房総半島にたどり着いたようです。

銚子外川港を作り、醤油醸造業も進出しました。

 

同じ境内にはヤマサ醤油創業家「濱口梧陵」の碑もあります。

 

津波から村人を救った「稲むらの火」のモデルとなった人物で

小泉八雲の小説「生ける神」で世界に紹介されました

私の通った高校は濱口梧陵が創設した学校でした。

 

魚を追い、西は九州五島列島の奈良尾にも進出し移住しています。神社には五島網から奉納された神輿が展示されていました。

奈良尾には和歌山の漁民が伝えた郷土料理、「紀寿し」が残ります。

 

 

 

五島列島は伊万里と同じ肥前、祖先の屋号の五島屋。

こちらも何か繋がりがありそうです。

D&AD Awards 2022でアイアムミカンが「Yellow Pencil(金賞)」を受賞!

D&AD Awards 2022において「I (Eye) am MIKAN」がPackaging Design部門で「Yellow Pencil(金賞)」を受賞しました。

 

世界で最も厳しいと定評のある審査を経て選考されるデザイン・広告賞の受賞。

とても嬉しいです!

 

D&AD Awards とは
非営利団体D&AD(Design & Art Direction)は1962年英国にて創立されました。D&AD Awards は、デザイン、広告、コミュニケーション、テクノロジー、フィルムにおける独創性を促し、支援することを目的に創設されたアワードです。世界中から400人を超える専門家が集い、厳正な審査を行うことで知られ、世界のクリエイティブの頂点として長年業界の進化に大きな影響をもたらしています。
 

パッケージデザインカテゴリーの受賞作品とShortlist (最終選考作品)
https://www.dandad.org/search/archive/?q=&programmes=D%26AD+Awards&years=2022&categories=Packaging+Design&sort_order=newest&page=2&show_result=true


セレモニーの動画

1:06:10あたりからパッケージカテゴリーの発表があります。
https://www.youtube.com/watch?v=kE5eYN9g_FU

 

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