独りごと。 | 木下ほうかオフィシャルブログ「ほうか道」 Powered by アメブロ

独りごと。

本日は休演日です。

今朝方まで部屋で若手たちとワイワイ飲んでました~




以前、今回の舞台出演に対する気持ちを少し書きかけたのですがここでその続きをつづります。


大阪芸大を卒業したその春、新聞の一面にオーディションの募集記事が掲載されていました。
そこには「合格したら即タレントデビューができる!」との、吉本興業初の全国規模のオーディションでした。
本来なら上京し劇団なり養成所なりに入ることを想定していましたが、当時文学座で50倍、円やそれらに類する大手劇団はどこも高い競争率で、無名塾にいたっては700倍であったと記憶しています。つまり受けるだけ無駄という判断です。養成所の三船芸術学院や勝アカデミー、丹波道場など入学資料も多く取り寄せていました。そこに吉本のオーディション情報です。
大阪では芸能界といえば吉本か松竹芸能が全てでした。なにもお笑いやタレントを目指していたわけではありませんが、好奇心で一応受けることにしました。面接では何か芸を披露したりせずというか出来ず、アピールだけをひたすらしただけでした。それでも何故か合格し進路を決断しました。
5000人前後が応募して、10人前後が合格したと思います。そして記事のとおり即デビューは本当でした。ただし好きなジャンルを選べるわけではなく、君は漫才、君らはコントチーム、木下君は新喜劇、というように会社の人に決められたのでした。ただ特筆すべきは、合格者は吉本初の給料制をひかれ優遇された扱いでした。
新喜劇は劇団のようなものですから、先輩は全て師匠です。毎朝一番に劇場入りし先輩方の化粧前を整え、化粧道具のスポンジを洗いなどなど、なかなか厳しいものでした。入って半年ほどは全く休みがありませんでした。それでも舞台に立ててテレビでも放送され、ときには芸人にまじってバラティのような番組に出たりと、楽しくもめまぐるしい日々でした。
役といってもギャグに対してずっこける程度のものから「ミチコさんを僕にください」みたいな真面目な役がほとんどでした。それでも笑いがとりたくて成功すると、すぐに先輩におこられます。「よけいなことすんな!」と。若手が上にあがるのは現在の新喜劇の状況とは違い、閉鎖的なむずかしい時期でした。そしてその頃は新喜劇が一番不人気な時期でもあり、近く解散される噂もでていました。
危機感があったから新喜劇を辞めたわけではありませんが、同じ頃「映画をやりたかったのになぁ・・」という思いから、「ガキ帝国」の高校生のときからお世話になっていた紳助兄さんに相談したところ、「それやったら東京に行かんと話にならんやろ」と言われ決断したのでした。
今回の舞台ではひにくというか、私が入った1986年頃からセリフにもある「最近は新喜劇が始まると客が帰る」というラストシーンまでの、まさに自身が吉本で過ごしていた時期とまったくかぶるのです。
大阪を去る時、完成したばかりのNGK(なんばグランド花月)に向かって「いつかここに違う形で戻ってきたる!」と誓いました。
25年という長い長い時間はかかりましたが、一応実現しました。とはいえ舞台は苦手だし、どやさ!?という気持ちで演じてはいませんが、昔誓ったことと、ストーリーが人生の一時期だったこと。
感慨深いというのはこんなことなんだなぁと。


つづきはまた。




写真は昨晩ご馳走していただいた、前田政二兄さんとその教え子NSCの若手たちです。
今回の物語のNSCの人間よりも、当時僕らオーディション組の方がいじめられたなぁ~(給料もらってたから)$木下ほうかオフィシャルブログ「ほうか道」 Powered by アメブロ